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大井町 昭和から今

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2017-01-19

第27回 品川たんけん隊の集いが開催されました。

日時:平成27年9月19日(土)
   午後2時00分〜4時00分
場所:大井第2地域センター 2階 講習室

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司会:本日のゲストは、安田 央さんです。
今日は、大井の宮本神輿のお話と題して、お話しいただきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

SANY0005.jpg安田
昭和19年生まれの大井町の出身でございます。
27年8歳まで小田原に疎開。箱根の強羅にある小学校に1年間通学。戻りまして、大井第一小学校に入りました。小学3年生から野球。伊藤中学の吹奏楽部では太鼓をたたいていました。のちに日フィルの打楽器奏者になられた方が、吹奏楽部の担任の先生だったこともあってレベルの高い部でした。コンクールに出た関係などもありオーケストラに入団し中学卒業後、高校からオーケストラで演奏しておりました。
安田生命、財団法人では、若手のクラシック音楽家のサポートと日本の伝統文化のサポートを担当しておりました。
その後、少年野球のコーチをしまして、教えていた生徒の父親が、宮本の神輿にたいへん関わっていらしたんです。そんなご縁で、頭を頼まれまして、退職と同時に、宮本の神輿に関わるようになりました。
どうぞ宜しくお願いします。

 宮本の神輿というものは、どういうものかと言いますと、資料の概要を説明させていただきます。こちらに地図がありますが、点線部分で出ているのが、中神輿。太線部分が、大神輿の順路でございます。いずれも滝王子の稲荷神社を出発しますが、中御輿は土曜日の夜6時に宵宮でございますので、夜の渡御を行います。そして大御輿は、翌日曜日の午後1時から出発いたしまして、杏林堂薬局のところまで行ってから南へ下って、午後5時に鹿島神社へ宮入をするというスケジュールになっております。
 渡御の前に、御神輿というのは普段は何もないんですが、お祭りの時に神様を御神輿にお入れする・・御神輿の上の部分がお宮の部分でございます。宮司さんが、祝詞をあげながら、そこへ神様の御霊(みたま)を入れるという儀式がございます。中神輿の出る直前、5時半に滝王子稲荷神社で大神輿、中神輿それぞれに入れております。実は、大神輿、中神輿、そしてもう一つ山車もあるんですが、この3つは同じ年、大正12年、同じ作者のものでございます。
 どういった経緯で神輿、或いは山車が誕生したかという事について、ご報告させていただきます。
今年の睦会便りの地図の下にございます品川区文化財調査報告書抜粋となっておりますが、実は宮本神輿につきましては、品川神社の葵神輿やあるいは居木神社の神輿、その他いくつかと一緒に品川区で記録を残しておかなければならない御神輿に選択されました。この資料では26年度となっておりますが、実はお役所でございますから26年度は今年(27年)の3月までで、ございます。3月にでた調査報告書に宮本の大神輿と中神輿、両方の内容が全部記録されております。その記録された内容を冊子から抜粋してまとめたものでございます。制作の時期が、大正14年でございます。ちょうど90年前になります。大井第一小学校が今年、開校140周年なんですけど、50年後の時にこの神輿ができあがったということでございます。出来たいわれでございますが、大正12年に関東大震災がございました。それで、鹿島神社の本殿が崩壊いたします。これ、たいへん貴重な写真なんですが、改修前か改修後かわからないんですが、鹿島神社なんです。倉本さんからご提供いただいて、倉本さんという方は、大井の名士でございます。ちょっと余談になりますが、私どもの宮本睦会の方でお預かりしている獅子頭がございますが、江戸末期に制作されたものでございます。確かそのつづらには、弘化(こうか)4年だったかな?に浅草で購入したと、でその中に3人のお名前が出てますが、その中のお一人が倉本さん。倉本さんのお宅では代々、大井の祭り事に関わっていたようでございます。その獅子頭は、今、補修しておりまして、今年はひょっとすると出て参りませんけれども。
実は、本殿が崩壊した時に基金を募ります。ちなみに皆さんご存じだと思いますが、鹿島神社というのは品川区の中で古い神社なんですね。一番古いのは、荏原神社。ほんとかどうかわかりませんが、神武天皇(じんむてんのう)の時代にできたとか・・。関ヶ原のお寺のご住職が、分社のお願いをしたのは、969年。平安時代、10世紀の後半に鹿島神宮からお許しを得て鹿島神社を設けたということです。品川神社の場合は、鎌倉期なんですね。そういった意味では鹿島神社は、わりと古い神社でございます。その本殿が崩壊したという事で、基金は今もそうですが、鹿島神社のテリトリーであります東大井から大井全般、南大井含めて基金を募ったんです。そうしましたら、実は思わぬ大金が集まりました。それで、せっかくだからと言うことで、復興の願いをこめて御神輿を作ったらどうかという・・ほんとの記録は残ってないんですが、どうもそういうことではなかったかと・・あまったお金プラスいろいろとまた募って御神輿を作ったようでございます。で、一番変わってますのは、神輿が浅草の神輿屋で作ったんではなくて鮫洲の船大工に頼んだと言う事で、ございます。この船大工は、資料の制作のところに出ておりますが、石井竹次郎とございます。武蔵小山の後地(うしろじ)の神輿、それからもう1基あったかもしれません。全部で5基、残っています。そんなことで、できたのが大正14年ですが、ほんとに地元産の神輿でございます。もうひとつ特長があります。城南の神輿と言うのは、ある面では江戸の神輿とちょっと違いまして、神輿を担ぐための台棒があるわけですが、神輿の本体に江戸神輿の場合は、穴があいててそれを差し込んでるんですね。ところが、城南の神輿については、本来は、台棒は台棒、ご本体は、ご本体で別で、それを綱でくくりつけると言う風になっておりまして、下に台棒を通す穴は、ついておりません。ですから、祭りの都度、綱を万力で締めあげて神輿を組み上げていくという構造になっております。

 それで、話がまた、横道にそれるかもしれませんが、先ほど、伝統文化のお話をいたしましたが、日本で、今、神輿って言うと普通は、神社の神輿というわけですね。ところが宮本の神輿は、神社の神輿ではなく、旧大井村全体の神輿なんですね。ですから、神社の指導を受けるということは全く無い、逆に言えば、もちろん御霊を入れていただくわけですから、宮司さんに来ていただいて入れていただく訳なんですが、運営としては神社とは、離れた形で運営しております。で、同じようなものが日本でもいくつか残っているところが、ございます。石川県とか京都府とかそういったところにあります。長野県にもございます。
 それ以前は、どうだったのかと、これは推測の域を出ないんですが、実は秋祭りですから、当然、豊作の祝いのはずなんですね。石川県、長野県、京都府の神輿は、毎年、神輿を作ってるんです。驚かれるかもしれませんが、それがどうも原型ですね。柴神輿といいますが、ようは野山に生えている雑木で作る神輿です。柴を集めて本体を作り、それにその年の豊作物を、まわりに飾って神輿を作ったと。京都のものは、まわりに大根やら蕪(かぶ)やら人参がぶらさがってるんです。で、ここが農村であったことを考えると、そういった神輿が江戸時代あったんじゃないかと思うんですが、そういう記録はございませんか?

 神輿ができたのは大正14年なんですが、それ以前の行事としましては、江戸郊外の草相撲の大メッカだったんですね。これ、鹿島神社の相撲大会です。(写真2)池上通りが今の状態に拡幅される前、鹿島神社の境内は、もっと池上通りの方まであったわけなんです。その向かい側は、岡田さんの味噌屋さんでした。で、この3大相撲といいましたが、残りの2つは、資料の後の方にも出ているんですが、渋谷と世田谷です。そして鹿島。3つありますから、調べてませんが春、夏、秋だと思うんですね。鹿島神社の祭りは、東京の一番最後の祭りなんですね。そんなことで最後の奉納相撲が行われた・・この時には、人数が3000人ぐらいじゃないかと大井警察でも言っておりましたが、あそこに3000人ぐらい集まって相撲なんて、たいへんな賑わいだったようです。今、駐車場になってる、あそこの一角から池上通りにかけてですね。もともと鹿島神宮は、戦の神様なんですね。同時に国引きではないんですが、相撲の神様でもあるんですね。今年6月に白鵬が、わざわざ鹿島神宮へ行って土俵入りしています。その流れで、鹿島神社で相撲が行われていた。宗教とは離れて民間信仰の、なんて言いますか、祈りとかそういった部分で伝統的な行事が、鹿島神社で行われていた。ただ、長らく鹿島神社は神主不在神社でしたので、その流れから行くと宮神輿も無くて、まわりで集めたので町の神輿ということで、それが宮本の神輿の起源でございます。神輿小屋が鹿島神社の中にありますので、あたかも神社の神輿のような感じがしますが、睦会の神輿でございます。
宮本神輿の大きさについては、資料に出ておりますように、当初500貫神輿と称されていました。お話にもございましたように戦の神であるということを謳い文句にして、かなり激しい渡御を行っていました。戦前もそうでしたが、戦後、最後の記録は24年ぐらいだったようですけれども、ぶつかりあう喧嘩神輿で死者が出ました。ぶつかりあう神輿というのは全国にもございまして、たとえば広島の神輿で、ふとん神輿って名前はやわらかいけど、これもぶつかり合う神輿でございます。もともとは宮本の神輿は、鮫洲で作ったというようなこともございますが、元来、このあたりは農村であったにもかかわらず、神輿の担ぎ方やら、あるいは気風、これはすべて立会、あるいは鮫洲の気風を受けついでますので、そう言ったような波の波動の激しさを訴える担ぎ方であったり、そういう動きをするのではないかと思います。
 ちなみに実はこれもそのとおりかどうかわかりませんが、先ほどお見せしましたこの相撲をやっていた関係で、相撲をやる時には、ふれ太鼓を回すわけですね。近在の荏原郡の方へふれ歩いたわけです。そのふれ太鼓が、あったからこそ神輿を作った時に、そのふれ太鼓を神輿にくくりつけてたたきながら渡御をしたと、で、それがいつしか城南の神輿のことになったということで、今の城南神輿のあり方の元祖が、ここなんだと言っているんですが、それが正しいかどうかは、わかりません。で、担ぎ方も先ほど、波と申しましたが、最近はその姿があまり見られなくなってきました。つま先だけで、かなり細かい
波模様を表しながら担ぐというのは本来の担ぎ方らしいです。これは体力を使いますんで、最近はやる場面が少なくなってきました。その後、なみ足でもって、さらにぶつかりあうわけですから、非常に不安定な形で渡御を行ってたんではないかと思われます。で、こういったようなことで御神輿が、始まったんですが、残念ながら昭和40年頃になりますと、若者がだんだん流出してしまいまして、担ぎ手もだんだん少なくなってきまして、40年代に入ってからでしょうか、一時中断するわけですね。で、トラックで運んじゃうというような事もありました。それで、それを見ていたかつての担ぎ手たちの子供が、あの御神輿を担ぎたいな・・と。それで彼らが、ちょうど上は22歳くらいでしょうか?自分たちで集まって神輿の修理を始めたんですね。もちろん当時の幹事長に許しを得て直しをしてる・・これが、ある程度、できあがったところで、皆さんに神輿をお披露目をしようと、で、祭りの後に今の神楽殿の前でそれを担いでまわったんですね。幹事長には話をしてたんですが、会長に伝わってなかった。それで、当時の会長が烈火のごとく怒って、勝手に持ち出して、勝手に悪さをしたということで、その若者たちを諫めたんですね。その中の一人が土下座をして謝ったということが、ございました。こういうことがありましたが、一方、若者たちは、「神輿を担ぎたい!このいい神輿を知って、少しでも仲間を増やしたい!」と、その後もひそかに担いでいたわけです。昭和50年にフジテレビの日本の祭りという番組がありまして、神宮外苑に日本の伝統文化の会、団体が・・もちろん事前に応募するわけですが、いろんなものが集まるっていうんで、その中の何組かの神輿団体の中に宮本の神輿も入ることができました。そう言ったことで、やれ盆踊りだのなんだかんだの中に入って神輿を外苑で披露したと。そうしましたら、全体の中の3位に入っちゃったんですよ。これがもう、たいへんな話題になりまして、昭和50年から渡御をやるべきだということで復活しました。ただ、その遺恨がございましたので、しばらく、その若者たちは、宮本の会長が許さないなら、俺たちの自分の会を作るって、大井宮本囃子会ってのを作ったんです。本来、彼らは神輿を復活させてお囃子をちゃんとやりたいと。神輿にお囃子がつくんですが、それ以外の江戸囃子もやりたい・・で、なぜ彼らはお囃子をやりたいと言ったかというと、職人衆が多いものですから、彼らは自分の父親から、親方は一芸をもたなけれがだめだと、それこそ昔は、小唄、端唄、いろいろございましたけど、そういったものが、ちゃんとできるんでなければ親方の文化としては、だめだよ・・と、自分も親方になるんだったら、お囃子くらい・・ということで本格的にやったわけですね。彼らのお囃子は、なかなかたいしたもんなんです。それと宮本睦会が併存してたんですけど、実際には、神輿の行事をやるのは囃子会のほうなんですね。で、もっぱら宮本睦会は、資金を提供する、陰でサポートする、そういう役割でございました。私が会長になりました時も、そういう状態でございました。お互いにわだかまりがあって、反目するわけではないんですが、いわば睦会の方は、町の住民の方々とスポンサーである商店の方々、そして若手の、もう当時、壮年になってましたけど職人衆とが二つが分かれてて、私が行ったとき、これ、どうしようかな?と思ったんですが、まあなんとかなるだろうと続けておりましたが、だんだんそれが融和していきまして、実は一昨年、会長を退いたんですが、嬉しいことに、その年、囃子会の若手までひっくるめて全員、宮本睦会に入会いたしました。ですから、今は併存しているというよりも、宮本睦会があって、その中に宮本囃子会のお囃子があると、そう言う風に少しずつ色彩がかわってきまして、やっと90年の流れの中で、新しい動きになったんじゃないかと思います。

 神輿の行事の大事な部分は何かといいますと、大神輿も中神輿も出発の時に、呼び太鼓というものをたたきます。これは城南の特有のことかと思いましたら、呼び太鼓は他の地区でもございます。ただ、神輿に太鼓をくくりつけて呼び太鼓で、担ぎ手に「さぁ、どうぞお入りください」というのは、城南、関東が中心ではないかと思います。呼び太鼓で担ぎ手を集めて、お囃子が奏で始めて、出ていく訳なんです。お囃子の曲の変化で、担ぎ方を変えるという約束になっています。で、それをしないものは、まわりで警護しているものが、引っこ抜くということに、なっております。酒が飲めないのにうんぬんというお話がございましたが、私が会長になって2年後くらいまでは、小さいビール出してましたけど、3年目くらいから今は、いっさいアルコールを出しません。休憩場所ででてるのは、お茶とコーヒーくらい。素面(しらふ)であっても祭り事だよ・・と。その中で、ちゃんと囃子に合わせて、担いでくださいね、というのが、今のやり方になっています。アルコールを出すのは、すべてが担ぎ終わって、稲穂がまかれて、ちょっとした休憩場所に行けば、初めて小さいビールが出る、そのような案配にしております。
行きつ戻りつ進んでいくというのが、本来の担ぎ方ですね。江戸の御神輿との大きな違いだと思います。若手は、こちらから浅草など江戸前の神輿も担ぎに行きますが、あちらからも「城南の神輿のあのおもしろさは、ちょっとないから」とむこうからも担ぎにくる、そういう方もいらっしゃいます。
大神輿は、ずっと長い間、池上通りの車が行き交う中で、交通事故すれすれの危ない渡御をしてきましたが、平成23年、当時大井警察署の交通課長だった鈴木さんのご尽力で車を止められるようになりました。おかげさまで、宮入前15分間だけ、フリーで担げるようになりました。宮本睦会にとって鈴木さんは恩人のお一人です。

 お手元にお配りした手ぬぐいなんですが、真ん中の赤いのが宮本睦会のマークでございます。昭和初期に、これを作ってるんですが、すごいいいマークだなぁと思います。軍配が入っているのは、相撲の関係です。その軍配の中に睦が、入っています。いずれも代々続いてるマークでございます。
ある時に、商店などで一生懸命、町を盛り上げようとされた時期に祭りという半纏をつかいました。また、元に戻して、昔のスタイルになりました。こういった紋章があるわけなんですけれども、実は、私を引き込んだ秋本君の父親が、相撲の最後の大関だったということです。戦後の26年ぐらいまで相撲が、あったようですが、なかなかの偉丈夫だったようでございます。鹿島でやらなくなってからは、一時、私、子供の時、見たのは南大井3、5丁目の交差点ですか、角に西堀っていう肉屋さんがあります。あそこの交差点で相撲やってました。西堀の若い店員たちが相撲に出ていきました。当時の思い出としては、露店が第一小学校のところまで続いていた、あれはすごかったなと思いますね。道路交通法以前ですから・・・。道路にお店があって、お客はその前の歩道で買ってるわけですから。今では、境内だけになってしまいました。
 宮本神輿を運営している宮本睦会が警察から、一つだけほめられたことが、ございます。暴力団取締りに関する東京都の条例が、できました時に会員ならびに担ぎに来てくださる方の名簿を提出しましたところ、俗に言う疑わしき人間はいない。都内の神輿団体で、これほどきれいな団体は、珍しいとお褒めをいただきました。そんなことでほんとに、大井の町の人間だけで運営してまして、また、呼ぶ方もその眼力の中で呼んでますから、その条例が施行された時に、前出の秋本君、あそこの滝王子神社のど真ん中に座って、「条例の施行されたのわかってんな?あぶないやつは、出られないんだぞ!」と大きな声で担ぎ手たちに呼びかけていました。
ま、そんなわけで、ちょっと乱暴に見えますが、安心して楽しめる神輿行事ではないかなと思っております。

 御神輿や、睦会についてしっかりした構成でお話いただきました。興味深いお話の連続で、あっという間に時間が過ぎてしまいました。鹿島神社の祭礼も、もっと身近に、今までとは違って見える気がします。本日は、貴重なお話を、ありがとうございました。



*** 豆知識 ***


▼大神輿・中神輿の順路図
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資料

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▼鹿島神社
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江戸前担ぎ
東京都内では「えっさ、えっさ」の掛け声で神輿を揺らす担ぎ方が有名であるが、近年は神輿同好会等の影響で「オイサ」「セイヤ」「ソイヤ」の掛け声が増えている。浅草三社祭・鳥越祭り・神田明神祭など、東京の祭礼の殆どはこの担ぎ方となっている。
▼城南担ぎ
(ちょいちょい担ぎ)
同じ都内でも漁師町であった品川・大田近辺では、小波に揺れる舟のように小刻みに神輿を振る。2点棒でトンボが複数あり、大拍子という太鼓が付いているのが特徴である。
(wiki)

弘化
(こうか)は、日本の元号の一つ。天保の後、嘉永の前。1844年から1847年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇、孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家慶。

▼鹿島神社での相撲(昭和2年頃)
鹿島相撲.png

宮本の手ぬぐい
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昔の連合渡御のお話
倉本:あの以前、昭和の50年代ですかね、連合でね宮本、原、森ですね、あれ結局、会長さんが3人とも八百屋さんなんですよね。それで気が揃って、池上通りを連合渡御をやったという経験が二度ばかりありました。安藤さんと、萩原さん。それから相原さん。
私たち子供の頃は、滝王子通りから池上通りへ出て、三つ叉の改正道路、あそこからニコンですね、日本光学のところをひとまわりするのが、われわれの行事だったんです。

安田:当時の原睦は、ずいぶん遠大なコースでしたね!

倉本:宵宮の日は、伊藤町をまわるんですよ。金子町と伊藤町を。原町だけではなく・・。本祭りの日は、三つ叉をまわるわけなんですよ。結構、御神輿をドスンドスン落とすんですよ。神酒所、神酒所で御神酒をごちそうになるでしょ。そんな時代でしたね。