品川区社会教育関係団体
品川区高齢者福祉団体『品川たんけん隊』のサイトです。

大井町 昭和から今

印刷用表示 |テキストサイズ 小 |中 |大 |

▲印刷  ▲文字サイズ
2017-01-19

第3回 品川たんけん隊の集い

平成22年2月28日(日)
午後2時00分〜4時30分
場所:大井第2地域センター 2階 第1講習室
第1部では、山坂さんを、第2部では、茂木さんをお迎えしました。

第1部:山坂さんを迎えて、お話をうかがいました。

yamasakasan.jpg第1部のゲストは、山坂さんです。山坂さんは、大正13年に大井の仙台坂で生まれ、現在も大井にお住まいになってらっしゃいます。
ナビゲーターは、メンバーの長久保さんにお願いしました。

SANY0009.JPG長久保さん
それでは、どうぞよろしくお願い致します。
SANY0007.JPG山坂さん
お話と言っても、小学校時代の記録なんて何もありませんし、写真なんかもありませんから自分の頭の中に残っている記憶だけを頼りに思い出をお話していこうと考えております。
まず、小学校時代ですが、私は仙台坂に住んでおりましたから、ほんとは、浅間台小学校なんですが、ゼームス坂を超えた向こうで遠く、とても通えないと言うことで、当時は寄留というのがありまして、管轄外でも行きたい小学校の区域に戸籍を一時移して、立会小学校へ行きました。
近いですし交通上も危険がないという事で立会小学校に決まったようです。
場所は、現在の立会小学校の所ではなく、現在のヤマダ電機のあるあの一角全部が小学校でした。ですから、品川郵便局のある通りのところまであって、横幅は現在のヤマダ電機のある建物の幅ありました。だから、小学校としては運動場も広かったですね。そのかわり施設はありませんでした。
プールも無いし、講堂も無いんですよ。講堂が必要な時には、2~3教室の壁を動かして、大きな部屋にして使っていました。
御真影が、いつの間にか飾られていて、行事はそこでやっていました。
そんなわけで設備としてはそんなに立派と言うわけではありませんでした。
で、その当時のお話ですが、家内が両国に住んでおりましたものですから、小学校時代の話を聞きますと、立会小学校は、木造2階建てで、冬はだるまストーブだったでしょ、でも両国の方では、当時既に鉄筋コンクリートでボイラーが入ってるんです。
すごい格差があったんですね。なぜそんなに格差があるのかな、と思ったら東京は旧市域新市域に分かれていて、品川周辺は新市域に入っていて旧市域との差が激しかったようです。
立会小学校で過ごした6年間でしたが、子供の時のことで最初に頭に浮かんでくるのは、旧国道の向こうが埋め立てになって昭和6年頃には、ほとんど出来てたんではなかったかと思います。
旧国道から埋め立ての方へ行くのに、掘割よりもっとせまいドブのような仕切りがありました。
そこへ板が渡してあって、そこを通っていくと言うようなわけで、ほんとに何も無い野原のような状態で、遊び放題遊べる場所でした。
そういう意味では、われわれの年代は、遊ぶ場所には非常に恵まれていて、楽しかった・・。

(以下、敬称は略させていただきます)

長久保
今で言うと、どのへんが埋め立ての場所になりますか?
山坂
旧国道から少し行きますね、あれからちょっと行った所がすぐに埋立です。
われわれの遊び場と言ったら、あのへんですね。
長久保
今のイオンのあたりも?
山坂
そうですね、あれも全部、埋め立て地です。
僕達が遊んでた頃は、ほとんど建物が無くて、あったのは、ガラス工場が一つっきり。
ガラス工場っていうのかガラスの欠片が表に放り出してあったんですよ。
それを拾ってきたりしたのは憶えてるんですけど、はっきり言って何を作ってたガラス工場だったかは、全然わからないんですね。
で、そこへ行っては、近所のガキ大将たちと一緒になって、埋立地ですから釣りができるんですよ。
埋立地の近くに小さな釣り道具屋があって、そこに竹の釣竿を一本預けておくんですね。で、学校から帰ってくると、カバンを置いてすぐに釣りに行っちゃうんですよ。
秋になるとハゼ釣りとか、竿では釣れないですが、ボラですね。
ボラはね、海に竹ひびっていうね、海苔を取るためのものがずーっと植えられてるんですよ、そこへボラが入ってくるんですよ。それを竿じゃ短くてとれないですから、のっこみという四角い錘のついたものをボォーンと投げ込むんですよ。ブンブンまわして。それで引っ掛けて釣るんです。
そうやって釣っても食べるのかというと食べないんですね。
ただ、釣るのが面白かったんですね。
埋め立ての岸壁から海面まで高さがあったんですよね。
だから、ちょっと降りる・・ということは出来ませんでした。
今、行ってみてもそんなに高さは感じないんですが、子でもで小さかったから余計に高く感じたのかもしれませんが・・。
それから、埋立地で面白かったのは、船だまりっていって鮫洲の方からずーっと奥まであったんですが、今は埋め立てられて、当時の半分くらいになってるんでしょうか?
その船だまりでサヨリの子供でしょうか、それが泳いでたんですよ。
岸壁の横をずーっと泳いでますから、見えるんですね。餌は、赤い布をつけてね魚の頭の辺りで上下に動かすと、かかってくるんです。
サヨリっていうより、われわれはダツと呼んでましたが。
長久保
それも食べないんですか?
山坂
食べた記憶はないですねぇ(笑)。
釣ったのはいいけど。どうしたんだろうなぁ・・。
長久保
海苔は取れたんですか?
山坂
そうですね、埋め立ての所は、ずーっと海苔ひびが入ってましたからね。
収穫した海苔は、鮫洲の所で、干してましたから。
参加者
私達が小さい頃も、ハゼが釣れて甘露煮なんか作って食べましたよ。
長久保
今は釣れないんでしょうか?
山坂
いや、また釣れるようになってきたんじゃないんですかね、昔ほどじゃないにしても。
あさりやなんかも昔は羽田が潮干狩りの名所だったですからね。
船だまりのところへ魚が泳いできたんですよね。
それからアミ!佃煮にするね。
手ぬぐいでタモを作って、アミをすくうんですよ。
参加者
うちの方には、ワタリガニや蝦蛄(シャコ)を売りに来てましたよ。
飯台かついで。
山坂
そうでしたね。
鮫洲というところが猟師町なもので、あそこで採れた生きた魚を売りに来るんです。
うちのおやじの生まれが九州で生きた魚が食べられるからここを選んだと言っていました。
仙台坂から鮫洲の方って言うのはいろんな種類の新鮮な魚が食べられる場所だったようです。
そんなことで、埋立地で騒いだりいたずらをしながら船だまりで釣りをして遊びました。
でも、泳ごうとすると水上警察がおっかないんですよ。
長久保
泳いじゃいけないんですか?
山坂
えぇ、泳いじゃいけない所なんです。
見つかったらたいへんなことになります。
でもまぁ、船だまりですからね。
奥へ入ってますからね、今みたいにモーターボートが飛ばしてくるということもないですから、そんなに波があるわけじゃなし、遊ぶのにはいい場所でした。
一番そこで印象に残ってるのは、夕方になると船だまりに品川の方から帆掛け舟が入ってくるんですよ。
結構、大きいのが。入ってきて、そこで帆をおろすわけです。
そうすると滑車の音が、カラカラカラカラッとして帆がおりてくる。
それを今でも思い出しますね。
長久保
漁をして帰ってきた船でしょうか?
山坂
うーん、あれはなんだったんでしょうか・・・結構大きな船でしたけどね。
あれは、品物を運搬する、今で言うトラックみたいなものではなかったかと思ってるんですが。
とにかく大きな帆をあげてました。
よくあの浮世絵にありますね、ああいうのが入ってきてました。
鮫洲のところって言うのはいろんな意味があったようなんですよね。
長久保
その帆掛け舟が入ってきたりするのは、小学校をでられるまで??
山坂
えぇ、ずーっと見てましたね。シナ事変が始まる前ですからね、僕が小学校終わったのが。
小学校は、昭和6年に入りまして、昭和6年に何があったかと言うと満州事変が起きた時、小学校が終わって中学校に入った時、また、戦争なんです。これがシナ事変。
中学校を卒業する前の年に大東亜戦争(太平洋戦争)にはいっちゃったんです。
私の世代って言うのは、小学校に入ってから学校卒業するまで、ずーっと戦争、戦争で来ちゃったんですね。
はっきり言って小学校時代ていうのは、戦争と言うのも子供ですからわからないですし、一生懸命、旗を振ったりというような時代でしたから。
ただ、御召列車が東海道を通る時には、立会小学校では、線路に面した教室に白いカーテンを引いていました。位置の関係で列車を見下ろす形になるせいだったからかもしれませんね。
あの2.26事件の時はね、全然わかんないで、子供の長靴がうまっちゃうくらいの大雪の中を立会小学校の校門まで行ったら、『今日、学校はお休みです』って書いてありました。
せっかく一生懸命ここまで来たのに・・・学校お休みかい・・(笑)と思ったんですけど。その時は、なんだかわかんなかったんですよね。
だけど、帰ってきてから親に話を聞いたら、これこれこういう事件があったということでなるほどな・・と思いました。
それから、2日くらいして青山の親戚まで行こうということになって、新橋から円タクに乗った気がするんです。
それで赤坂を通って行ったんですけど、そのあたりで兵隊さんがいっぱいいるんですよ。これが親が言ってた事件のところなんだな・・と。
鉄砲を3丁、交差して立てて、ずーっと並べてあって、歩哨が立っていてですね、事件の一端を見たような気がしました。
長久保
事件の直後ですか?
山坂
いえ、2日ぐらい後でしたから、まだ、ワサワサとやってましたね。
普通の人が通るのは問題なかったんです。
あの時は、アドバルーンが揚がってそれにいろいろ書いてあったらしいんですが、それは直接見たような気がしないんです。車の中からはね。
ただ、へぇ~こんな事があるのかぁ・・・という、なんと言いますか・・・恐怖心までは行かないんですけど、独特の感じがしましたねぇ、その時は。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
あと、大森のサワダヤというかに料理屋におやじによく、連れて行ってもらいました。
あそこは2階が広間になってて衝立で仕切って、カニを食べると。
今で言う、食べ放題みたいになってたんじゃないでしょうか?
ワタリガニのような地元で採れるカニですね。
戦後は、サワダヤへ行ったって、海風が、はいるどころではなく、戸を閉めちゃってましたね。
これは、もう東京湾だめかなぁ・・と思ったんですよ。
東京湾で採れた魚を買ったんですが、煮魚にして、食べようと思って鼻先へもってくと、重油のにおいがプーンとして口に入れられるものじゃないんですね。
だから、東京湾全体が廃油でいっぱいになっちゃってたんですね。
東京湾はもうだめだ・・・という感じがあったんですが、最近はきれいになりましたね。
あの辺にいる方に聞いたんですが、あのあたりで釣りをするとボラが釣れるんだそうです。
で、臭みも何も無いので、今は、調理して食べられるそうです。
今から60年の間にすっかり様変わりして良くなったということですが、住んでる住民の方や入ってくる船、みんなが努力した結果でしょうね。
一回、壊れかけたものが再生したっていうのが、東京湾の姿だと思うんですよ。
山坂
それと、もう一つ。お会式。10月12日の。池上のお祭り。
今は、もうほとんどトラックで、ビューっと行っちゃうらしいんですが。
昔は、全部、品川の八つ山に東京の方から来た人が集まって、隊列を組んで、ずーっと京浜国道を歩いてきて、青物横丁から仙台坂を上がって、大井の池上通りへ出て、池上まで歩いて行ったんですよ。
参加者
きれいでしたよね〜。
長久保
そんなに長いんですか?道中が。
山坂
そうですね。うちがちょうど、仙台坂にあったもんですから、10月っていうと大きなみかんの木に実がなるんですよね。
まだ、真っ青なんですけど。食べられるのかなぁ・・?
と思うんですけど、ドンツクドンツク行列で坂を上がってきて、みかんがなってるのを知ってる人はみかんを採って食べてました。
おそらくのどがかわくんでしょうね。
お会式の時っていうと、必ずそういう方が何組かいらっしゃいました。
長久保
山車みたいな・・・?
山坂
あれは、かついでましたね。万灯(まんどう)。人が持って。
しだれ柳みたいになった枝に紙で作ったお花をたくさんつけてね。
最初は、今みたいなバッテリーの照明じゃなくて、ろうそくを使ってたんですね。
その時は、お花に燃え移ったりして火がついちゃうんですね。
一瞬にしてばぁーっと燃えちゃうんですね。
長久保
燃えちゃうこともあるんですか?
山坂
ありましたね。
その後で、今みたいにバッテリーでやるようになったんですよ。
最初は、かついで、その後はリヤカーにのせて・・。
長久保
今はどうしてるんでしょうか?
山坂
今は、トラックで本門寺のきわまで行っちゃって、あそこから行くみたいですよ。
あの頃はね、ちょうど10月でしょ?
まぁ、今の10月って言うとあったかいでしょ?
あの当時は寒かったんですよ。
当時、着ていた着物を持ってきたんですが、羽織と袷(あわせ)の着物です。
まぁ、親が九州なものですから、久留米がすりです。

子供時代の半纏風の羽織

羽織

モダンな柄の羽織。

子供時代の久留米絣の袷の着物

久留米絣(くるめがすり)の着物

袷(あわせ)の着物をお持ちいただきました。

参加者
かわいい!!
長久保
7歳くらいの時のものですから、76年前のものですね。
長久保
生活感があって、貴重なものですね。
山坂
そう。たまたま私の所は焼けなかったのと、無くさなかったので、残ったわけです。
参加者
きれいにとってありますねぇ!
山坂
古い物がいろいろあるんですよ。
今でいうところの卓上コンロ。下のお皿の水を入れておいてその上におこった(火がついた)炭を入れるようになっている陶器製のコンロで、すき焼きや鍋物をする道具です。まだ、それは残ってるはずです。
だいぶ処分して少なくしたんですが、今、使えるものはほとんど無いんですよね。会席膳や重箱など。
今だと芝居の時に使うくらいだと(笑)言ってるんですが・・。
銅壺(どうこ)って言って、夏に使ってたもので煙突の中に炭を入れてそれで水を沸かして行水に使ったりしたのがありました。
これは、もう処分してしまいましたが。
まぁ、これからこういうものは実用品ではないので、どうするのかなぁ?と思いますね。
長久保
中学校は渋谷に行かれたとか?
山坂
小学校を昭和12年3月に卒業して、それから渋谷の方の中学校に行きましてね。旧制中学ですね。
この5年間と言うのは、他の中学校と違う点がありました。
私の行ったのは、クリスチャンの学校だったんですが、だから割りに自由の気風があったんですね。
昭和12年と言うと、そろそろシナ事変が始まっちゃってなんとなく方向性が決まってくる時代のさきがけですね。ですからなんかあるとすぐに、軍人さんじゃないですけど、そういう関係の方が及んでくるというね。
そんな中で、クリスチャンの学校は御真影をいただけなかったんです。
自由な気風の学校だけに、いろいろと悩みがありました。
一番記憶に残ってるのは、ちょうど卒業の年が太平洋戦争が始まる時ぎりぎりですから、卒業の記念アルバムに『戦争の開始・真珠湾攻撃』の写真があったり・・。
それから、外人教師が何人か来てたんですが、外国のかたがたは戦争が始まって全部、帰国というか追放になるんですね。
そうすると我々が校門まで送るわけです。ハイヤーに乗って手を振って、そのままずーっと行かれるのかと思ってたんですが、校門を出たところに警察が待ってて、警察の車の乗り換えて警察へ連れて行かれるんです。
我々は校門の中のことしか知らなかったんです。出たらどうなるか、知らなかったんです。
だから、そういう点では自由でありながら、なんかこう情けないような気持ちがありましたね。
長久保
その先生達は、外国語の先生達ですか?
山坂
えぇ。そうです。英語の先生です。ほとんどが英語の先生ばっかりでした。
校内に住んでましたから。ちゃんとした住宅があって。
山坂
今の若い人たちみたいに、踊ったり歌ったりというのはなかったですが、
私たちの時代のそれなりの中学校時代の青春は得たと思っています。
自由な気風の学校でしたし、精神的な教育はもちろんでしたが、自分で生活が何でも出来るようにと、玉川の河川敷のところに大きな農場がありまして、毎週土曜日はそこへ行って畑仕事をするんです。
キャベツ作ったり、トウモロコシ作ったりしていたんですけれどもね。
あとは、大工仕事ですね。カンナからノミから。
自分で研いで全部やるんです。
そういうのを5年間やってる間になんとなく身に着いたというか。
今でも役立っています。
今のお子さんの教育に無い、頭だけじゃなくて、からだできちんと身につけるのは大事だと思いますね。
長久保
戦争中はずっと学生だったわけですか?
山坂
えぇ、そうです、学生です。
戦争終わって、2年位してから卒業ですから。
山坂
それと、是非皆さんにお話したいのは、3月10日の空襲。
大空襲ね、あの下町の。
あれを実は、見てたんですよ。と言うのは学徒動員で行ってましても、帰ってくると必ず空襲があるんです。
それで3月10日の時は、仙台坂から向こう、東京湾の向こうが下町なんです。
当時はせいぜい2階建てくらいしか高い建物がありませんから、仙台坂の上から丸見えなんです。
で、普段の時は、見えないんですよね。ところが、空襲ですと飛行機が飛んできて、弾倉を開けて、爆弾だか焼夷弾だとかぱーっと落として、すーっと上の方へぬけていくんです。
最初はずーっと高いとこを飛んでるんですが、焼夷弾を落として下が燃えてきますね、そうするとどんどんどんどん飛行機が低くおりてくるんです。
だから、見てますとね、飛行機の胴体の下が真っ赤になるんです。下の炎の色で。もう、ひっきりなしに飛んでくるんです。
その時は、こちらから見ててもすごいな・・と思いましたが、まさか、あそこの下で10万人の方が亡くなってるという感覚が無かったんです。
だけど、ああいう凄まじい光景を見たのは、あれが最初で最後ですよね。
あんな悲惨なことは、あれで最後にしたい。
あの光景を見たら、2度と戦争なんてやるもんじゃないと思いますね。
長久保
大井町は空襲にあいましたか?
参加者
大井町は第一小学校は、空襲にあいました。
あの、兵隊が駐屯している学校とそうでない学校を抑えてたみたいです。
駐屯している小学校はみんな空襲にあいました。
ですから、私は疎開してたんですが、その時の直撃でやられた光景は後から聞きました。
山坂
大井町から品川にかけては、まばらに爆撃されてて一面にされたわけではなかったんですよ。
それとこの空襲でやだったのは、仙台坂から自転車で、五反田をぬけて渋谷をぬけて青山へ用事で行ったんですよ。そうしましたら、五反田から先でやっぱり焼けた方がマネキン人形のような状態で、全部、真っ黒け。
みんな表参道は焼けないと思って避難してきたらしいんですが、焼けて火が走ったそうです。
それでみんな亡くなったそうです。
ちょうど表参道と青山通りの交わる所に銀行があったんですが、あそこの角で、その方達を片づけてるんですね。トラックに次々と積んで。
あれを見て、ほんとに大変だなぁ~と思って。
僕の中学校の同級生も隅田川の方へ学徒動員で行ってまして、川の中で亡くなった方を川から引き上げるお手伝いをしたそうです。
だから、兵隊さんはもちろんなんですが、われわれも内地にいて楽だったのかと言うと、決してそうではなくて常に命の問題はあったわけですから。
2度としたくない経験をしてきた、というのが私の青春の一コマですよね・・。
山坂
あと、特高というものがありました。警察のね。
私が、昭和19年の夏休みに、友達の那須の別荘へ行ったんです。
若い連中が列車の中でわいわいやってるわけですよ。
そうすると、その後ろへ来て立ってるんですよ。
このおじさんなんだろな・・?と思ってたんですけども、後で聞いたら特高だよ・・と言うことでね。
要するに若い連中が騒いでると何をやってるんだろうということで、見てたんだと思います。
やはり昭和19年に友達の家で、みんなで麻雀をジャラジャラやってたら、
表の通りを行ったり来たりする人間がいるんですよ。
それもやはりそういう関係だったらしいです。
そんなことも、戦時中の思い出ですね。
山坂
最後になりますが、戦後一時期まで、仙台坂にはお屋敷がそのまま残ってましたから、高台へ行きますと品川の海が全部、見えるんですよ。
あの当時、観測船の宗谷ですか、通るんですよ。こっちから手を振るとね、向こうからも手を振ってくれてね(笑)そのような、のどかな海が見える状態だったんです。
今は、品川神社の富士講の高い所へ行っても、何も見えない。
その辺のところが戦後すごく変わってきた所です。
まぁ、それだけに気温が暑くなったということでしょうね。
子供の頃は、仙台坂の下の所の風呂屋に行って、手ぬぐいをぶら下げて仙台坂を登ってきて手ぬぐいを見ると凍ってるんですよ。
そのくらい寒かったんですよ。
だから気温的には、今は、温室に入ったような感じですね。

山坂さんのお話は、ここでおしまいです。
機会があれば、ぜひまた、お話しいただければと思っています。ありがとうございました。

<休   憩>

<第2部:茂木さんを迎えて、お話をうかがいました。

mogisan155s.jpg第2部のゲストは、茂木さんです。
茂木さんにもっとお話をうかがいたくて2度目のご登場を願いました。

ナビゲーターは第1部に引き続き、長久保さんにお願いしました。

長久保
今、山坂さんから仙台坂のことについていろいろお話をうかがったんですが・・。
茂木
あの仙台坂はね、トンネル工事始めちゃったら、いろんな物が出てきちゃったんですよ!
それでね、4年間、工事がストップしちゃったんですよ。
瓦から何から家紋付きの物がいっぱい出ちゃったんですよ。
仙台様(仙台藩伊達家のこと)の。それで発掘したりで4年間ストップしちゃったんですね。
私ら子供の時、仙台様のお屋敷を見に行ったんですよ。小学校6年生くらいだったかな・・。
仙台様と土佐山の山内(ヤマノウチ)さん(山内容堂)のお墓
長久保
土佐山ですか?
茂木
今、立会小学校の建ってるところが、土佐山って言って、山内(ヤマノウチ)さんの下屋敷だったんです。
入ってはいけない場所だったんですが、子供の頃、棘のある垣根をもぐって(笑)
参加者
笑い
茂木
見に行ったんですよ。そうしたら、まるーく土を盛った15mくらいのお墓が2つあったんですよ。
誰が祀ってあるのかわからなかったんだけど、山内さんのお墓だと聞いていました。
この後、大正時代の関東大震災のお話がありました。
倉田の方に大きなケヤキの木があって、暴動があるというデマの為に自警団を作って、そこにムシロを敷いて一晩中、すわってたそうです。でも、暴動はなかったそうです。
自警団を作ったおかげで火事なども出さずに大井町が無事だったそうです。
昭和の時代とは違う話だけれど、それだけは伝えておきたいとのことでお話くださいました。
茂木
そして、そのあくる年に私が生まれて昭和5年に第一小学校の一年生で入学しました。
その頃は第一小学校も今みたいに立派ではなくて、学校の門を入ると校長先生の平屋の住まいがあったんです。
昔はいろんな時代があって、兵隊さんが一番偉くて、おまわりさんにつかまったら大変だよ・・って言われてました。
今みたいに、女の人と表で話してると、つかまっちゃうんです。女の人と歩いてたりしたら大変でした。
だから、あの頃は、学校も女性と男性は別の組。男女組ができたのが、私が1年生には言った頃で、PTAのおやじさんたちが、『とんでもないものが出来た』と反対だったようです。
それから振り返ってみると、昭和11年に三つ又通りが広がりまして、それまでは三間道路でした。
車も通らなかったんですが、第一小学校の方、鹿嶋神社もそうですが、とりはらったんです。
だから第一小学校も昔はもっと校庭が広かったんですが、道路にとられちゃったんですね。
鹿嶋神社もお相撲が出来るくらいうーんと広かったんです。
で、そうやって広げたんですけど、車も通らないくらいだったんで、私達が体力測定で大学校の前からあの通りを森まで夜、駆け足をしたというような時代でした。
長久保
鹿島神宮と言うのと関係あるんでしょうか?
茂木
昔は、鹿嶋神宮は、北海道の蝦夷を守ると言うことで、お社(やしろ)が北を向いていて、鹿嶋神社は、そうではないのでね・・でも、なにか関わりがあるとは思うんだけど。
で、縁起を見ると(参考資料を見ながら)来迎院と一緒になっていたとあって、茨城の鹿島神宮の事が出てこないんだけど・・。
参加者
何年か前に1000年祭と言うのを一緒にやったんですよ。
分家してから1000年たったということで。
長久保
あぁ、そうですか・・。
茂木
もっと古いのもあるんですよ。(大井という資料を開きながら)
大井の井戸があるから大井になったと言う説と、昔は野生の井草が生えてたから・・
というのと二通り意味があったけど、これで見ると大井の井戸がほんとうらしいですね。
この本は、大正13年のものです。私が生まれた年のものです。
長久保
これは貴重なものですね。
茂木
これは以前の町会長さんから是非、使ってくださいと譲り受けたものです。
そう言えば、倉田にお稲荷さんがあって、お稲荷さんの隣に安藤さんってうちがあったんですよ。
安藤さんのうちはお稲荷さんの言いつけで一世一代って言って、やけどの薬かなんかをその人一代だけ、子供に継がせてはいけないっていうことで、お許しをもらえたんですよ。
それと平田さんって倉田の方で、飲むとおなかが下って・・その薬も平田体育改善堂って言っておじいちゃんが元気な時は。
一人一代、もう子供はダメなんです。
で、大井で安藤さんの薬と平田さんの薬は、電車使って買いに来る人がいて、『すいません、ここにこういううちがないですか?』って、看板が出てないから。
長久保
よく効くんですか?
茂木
ええ。
一家一代って言う薬を売ったうちがあるというお話でね。
今でも、安藤さんはお稲荷さんの近くにありますが、3代目だから薬とかはぜんぜんわからないようです。
長久保
なぜ一代なんでしょう?
茂木
それは、わからないですね。
結構、一代で、たくさん売れたのかもわかんないよ。
それから、資料を見ながら、古い番地のお話になりました。
参加者
今、道路で4丁目と6丁目になってますけど、以前は水路がありまして、そこからこっちは鹿島町で。昔は水路で分かれてました。
鹿嶋神社の前を、池上通りで何丁目って言ってますけど、あれより裏に水路があるんですよ。
これずーっと行くとコウラクエンの脇へ出るでしょ?あそこで、庚塚(きのえづか)と鹿島町は分かれてたんです。
それから西光寺さんのお話に・・。
茂木
西光寺さんは、幼馴染で遊んだ仲間でした。小学校5年生の頃から、亡くなった住職と友達で、住職とは一つ違いでした。
長久保
どっちが上なんですか?
茂木
私が1つ上で。
お寺へ行くとお3時、10時っておやつがでるんですよ(笑)
参加者
笑い
茂木
職人のうちでは、なんにもないけど、西光寺へ行くとお3時に『おやつよ』ってくれるんですよ。
友達の住職は食べ飽きてるので『持ってってもいいよ』ってくれるんです。
知らないから持って来ちゃって、親にお葬式のお菓子をもらって・・って(笑) 叱られたことがありました。
もっとひどかったのは、白木ですごくいい箱があって・・骨壺を入れる箱をもらってきちゃったこともありました(笑)
参加者
大爆笑
茂木
子供心にも、すごくいい箱なんだよ。それで、住職があげるよって言うから、なんか入れるのにもらって行こうって。
帰って怒られたもいいとこでした(笑)
参加者
爆笑
茂木
そんなことで、お寺はこわくないんですよ。
よく墓地でころぶと寿命が縮むから転ぶんじゃないって言いますが、年中、転んでましたから(笑)
よく遊びました。
あ、それから、鎌倉古道がありますけど、鎌倉古道の一角が、今のシブヤ楽器の横からずっと入ってきて、作守稲荷神社のところを通って、
坂を下りきったところに今、倉田会館があります。
倉田の町会の角が、地蔵堂って言って、お地蔵さんが祀ってあって、尼さんがちゃんといたわけ。
そこが鎌倉古道の地蔵堂って有名な地蔵堂です。
そこを曲がって西光寺へ行って、光福寺、それが鎌倉古道って有名な道。
西光寺さんも、すごく有名な桜の木があったんですけど、火災で燃えちゃって、何にも無いんです。
鐘つき堂の鐘も供出で、一番最初に国に収めたので、無くなっちゃったんですよね。
大井で楽しかった思い出って言うと西光寺さんとのね、思い出がいっぱい!
それから、お会式で万灯が通るっていうと三つ又で2つしか通らないし、第一小学校の前でトラックに積んで行っちゃうし・・。
昔は、ちゃーんと池上本門寺まで行ったもんです。
それで、足が弱い人は、10月22日に大乗寺って鈴が森の刑場の後が日蓮宗のお寺になっていて、そこが10日遅れでお会式をやるんですよ。
あそこへ、みんな万灯が来るんですよ。あそこは石段を上がんなくていいからってお年寄りが行くんです。
池上みたいにたくさんの万灯はこないけど、10~15はくるよってことで。消防団の時には、毎年行ってました。交通整理で。
お話の最後に、海軍へ入隊の時に、三田のミョウガ稲荷に願掛けをして、茂木さんのお母さんは1年間、茂木さんは一生とミョウガ断ちを誓ってしまったので今でも、ミョウガを召し上がれないなど落語のようなお話もしてくださいました。
その後、兵隊に行っていた2年間のお話で、海軍時代のお話もしていただきました。
上官と茂木さんのほろっとするようなちょっといいエピソードもありました。

茂木さんのお話はここでおしまいです。初めてお話しいただいた時よりもリラックスしてお話ししていただきました。ありがとうございました。





***** 豆知識 *****




▼寄留

LinkIcon越境通学

▼立会小学校

昭和27年の立会小学校の全景の画像が見られます。
LinkIconしながわWEB写真館へ

▼旧市域/新市域

東京15区(とうきょう15く)とは、明治11年(1987年)から昭和7年(1932年)まで東京に存在した行政区域群の事である。
LinkIcon東京15区

▼ダツ

ダツ(駄津)は、ダツ目・ダツ科(Belonidae)に分類される魚の総称。
サヨリなど。
LinkIconダツ

▼竹ひび または 海苔ひび

平安時代から東京湾に自生していた海苔は江戸時代に東京の大森村・品川村の遠浅の海で、竹ひびを立てて作られていました。
LinkIcon大森 海苔のふるさと館

▼御真影(ごしんえい)

宮内省から各学校に貸与され、奉安殿に教育勅語と一緒に保管された。四大節(元旦・紀元節・天長節・明治節)には講堂の正面に飾り、児童(生徒)・職員一同が遙拝した。
LinkIcon詳しくはこちら

▼だるまストーブ

ダルマストーブとは明治から昭和中後期にかけて日本で使用された鋳鉄製の暖房器具である。その形体(膨らんだ寸胴形、寸胴形、球形など)がだるまを想起させダルマストーブと呼ばれる。
LinkIcon詳しくはこちら

▼アミ

曳網などで漁獲されるが、全体的に漁業としての規模は小さい。
LinkIcon詳しくはこちら

▼蝦蛄(しゃこ)

外見はエビに似ており、「シャコエビ」と呼ばれることもあるが別種の甲殻類である。LinkIcon詳しくはこちら

▼帆掛け船

hokakebune.jpg

▼円タク

一円タクシーの略。
もとは、市内1円圴一のタクシーを称した。
転じて、流しのタクシーのこと。

▼銅壺

銅壷(どうこ)は、長火鉢にはめこんだ銅製の箱型の湯沸し。
本来は、銅製の炭火湯沸かし器各種の事
銅壺
銅壺

▼袷(あわせ)

裏をつけた着物。

▼お会式

万灯を先導するのは、江戸の火消し衆が参拝する折りに始めた纏(まとい)。纏が賑やかに舞い、団扇太鼓と鉦と笛の軽快な音色と共に万灯は進んでゆきます。
LinkIcon詳しくはこちら

▼学徒動員

戦争の拡大に伴う農村・工場などの労働力不足を補うための学生・生徒の強制的動員。

▼仙台坂

LinkIcon詳しくはこちら

▼供出

昭和17年1月12日、柏町は、兵器に使うための必要な鉄や銅などが不足しているため、寺のつり鐘や公園の 銅像、各家庭の金属製品までを供出させました。

▼山内容堂

山内 容堂 / 豊信(やまうち ようどう / とよしげ)、文政10年10月9日(1827年11月27日) - 明治5年6月21日(1872年7月26日)は、日本の武士・外様大名・土佐藩15代藩主(在任期間:嘉永元年12月27日(1849年1月21日) - 安政6年(1859年)2月)。官位は、従四位下・土佐守・侍従、のちに従二位・権中納言まで昇進している。諱は豊信。隠居後の号は容堂。
LinkIcon詳しくはこちら