品川区高齢者福祉団体
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大井町 昭和から今

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2017-05-10

第24回 品川たんけん隊の集いが開催されました。

日時:平成27年3月28日(土)
   午後2時00分〜4時00分
場所:大井第2地域センター 2階 講習室


調べてみよう大井町
〜町名とその由来〜

 今回は、現在の大井町の地名について調べてみました。
メンバーで古地図を入手したり、品川図書館の文献より情報を集めたりしました。
 大井町は昔、大井領と呼ばれていまして、天保年間の当時、513軒の民家があったそうです。石高(こくだか)が、1,563石。1869年に廃藩置県があり、その時に品川県荏原郡大井村となりました。その後、1878年に東京府下荏原郡大井村と改正されました。その時の人口が、4,264名。所帯数が、961戸。1908年(明治41年)に、町制度ができて、東京府下荏原郡大井町となりました。
 この頃に、これからお話しして行く庚塚とか倉田町など、地名ができあがったということです。

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クリックすると拡大します。

 話は少しさかのぼりますが、大井は山の部分でなかなか人が集まらなくて、開けたのは海沿いからでした。上方の漁師を招いて進歩した漁法を覚え漁業が盛んになるにつれ、いくつかの漁村ができ港が中心になって、人口が増えていったそうです。品川地域では、南品川漁師町(品川浦)と大井村御林漁師町の2つができました。この御林町が、現在の東大井1丁目、昭和7年には大井鮫洲町、明治44年には御林町の名前でした。

鮫洲の地名の由来は諸説ありますが、鎌倉時代、品川沖で大鮫が死んで浮いているのを漁夫が見つけ、この鮫の腹を割いてみると、聖観音の木像が出てきたそうです。この聖観音は鮫洲観音と呼ばれ「鮫洲」の地名になったといわれています。この観音像は海晏寺の本尊として奉られています。

 また、立会川の名称の由来には諸説がありますが、源平の合戦の際に、この川を前衛として源氏軍が平家の来襲に備え、長い間、この川に対陣したため、立会川と命名されたとしています。立会川は、しばしば戦乱に巻き込まれることが多かったといわれています。
立会川の近くには関ヶ原という地名も残っており、鎧や武具が発見されたとしている鎧町など合戦に関連のある地名が多いことに気づきます。

浜川は、立会川が海に注ぐあたりを浜川と呼び、そこから自然に名前が生じたとされています。

山中町については、昭和の資料ですと何も載ってないんですが、大正時代の資料の中に、町の北に山中段久郎が住んでいたとされる説、森に囲まれていた為に山中と呼ばれたとも言われています。

倉田町は、大井郷の税金を納めておく郷蔵があったという説、倉田耕地は古来よりの字で、百姓家のところを倉田という説があります。検地帳にも倉田耕地と記してあるそうです。

滝王子は、滝氏という豪氏がいて王子稲荷を管理しておられたところから滝王子になったと言われております。滝王子の由来に関しては、第8回の集い・津田さんのお話の中にも詳しく出ております。

出石の起源は不明ですが、元禄時代の検地帳に出石耕地と記されていたと言われています。

参加者の方から
私のところは、大井町庚塚になっています。
それから今、出石の話がでましたが、町会はね、庚塚と出石はいっしょの町会だったんです。
町会の引き太鼓が今、庚塚町会にあります。昭和7年に作ったと書いてあります。
まだ、健在で、子供たちが引っぱって歩いています。

金子町は、昔、金子左近という長者が住んでいたと言うので、この名が残っているそうです。金小山は遺跡がでて、一族のお墓があったようです。

参加者の方から
金子町ですけど、昔、私が勤めている時の取引先にT銀行がありまして、日本橋の三越の前にそこの支店がありまして、そこの副支店長をしておられた方が金子さんとおっしゃって、その方が「うちの先祖が大井の金子山に住んでいたんだと、聞いたことがありました。

原町の一帯は大地状の耕地で、地形からつけられたものと考えられています。

参加者の方から
原町ですけど、あそこは昔、農家が14〜15軒あったんですよ。その中で倉本が12、3軒、あとは村田、増山、石黒、萩原ですね。それから秋本。畑みたいなね。

伊藤町は、以前、谷垂(たにだれ)、篠谷と呼ばれていたが、伊藤博文の墓所があることから改称されました。

参加者の方から
今、お話しになっている踏切をこえたあたり、伊藤町ですね。あれ昔は、あの通りを境にして南側が篠谷(しのや)と言ったんです。篠竹が、いっぱいはえてて・・・昔あの辺に民家はないんですよ。通りを境にして北側を谷垂(たにだれ)と言いました。

 地名の由来については、諸説いろいろあります。
余談になりますが、蒲田太郎、大井二郎、品川三郎、目黒弥次郎など、地名を個人の名前からとったケースもあると言うことです。引き続き、気にかけながら調べていきたいと思っております。



▼下のタブをクリックすると、東大井、南大井、西大井の町名がご覧になれます。

大井1〜7丁目

大井

 大井郷。大井村。明治22年の「市制町村制」では一村独立、同41年大井町、昭和7年品川区となり、大井鮫洲町・大井林町・大井立会町・大井元芝町・大井北浜川町・大井南浜川町・大井寺下町・大井関ヶ原町・大井水神町・大井鈴ヶ森町・大井海岸町・大井坂下町・大井権現町・大井森下町・大井山中町・大井倉田町・大井鎧町・大井鹿島町・大井滝王子町・大井庚塚町(かのえづかまち)・大井出石町(いずるいしまち)・大井原町・大井森前町・大井伊藤町・大井金子町とに分かれた。同39年新住居表示により、大井鎧町・大井森下町・大井山中町・大井倉田町・大井鹿島町・大井滝王子町・大井庚塚町の各全部に大井出石町の東三分の一・二葉町1丁目のごく一部・大井町線以南の大井権現町をあわせた町域を現行の「大井」とした。

現在の地名 昭和7年の地名 明治44年の地名(大字・字) 現存地名
大井一丁目  大井権現町  大井 権現台 鎧ハイツ
 大井鎧町 鐘ヶ淵
大井二丁目  大井森下町  大井   森下   森下児童遊園 
大井三丁目  大井山中町  大井  山中  山中小学校 
大井四丁目 大井倉田町   大井  倉田 大井倉田保育園
大井倉田児童センター
 大井五丁目 大井滝王子町 大井 滝王子 大井消防署滝王子
滝王子保育園
滝王子商店街
大井六丁目 大井鹿島町 大井 鹿島谷 鹿島神社
大井七丁目 大井庚塚町 大井 庚塚 鹿島庚塚児童遊園

東大井1〜6丁目

東大井

 品川区の南東部に位置する。北辺は東京都道420号鮫洲大山線に接し、これを境に南品川・東品川にそれぞれ接する。東辺は京浜運河に接し、これを境に八潮に接する。南東は勝島運河に接し、これを境に勝島に接する。南辺は立会川に接し、これを境に南大井に接する。西辺はJR東海道本線などの線路に接し、これを境に広町・大井にそれぞれ接する。地内中央付近を南北に第一京浜が、東部を南北に海岸通りが通っている。五丁目内には池上通りが通っている。(wiki)

現在の地名 昭和7年の地名 明治44年の地名(大字・字) 現存地名
東大井一丁目  大井鮫洲町  大井 御林町 鮫洲駅
東大井二丁目  大井北浜川町  大井 北浜川  浜川バス停 
東大井三丁目  大井元芝町・大井北浜川町 大井 元芝・北浜川  元芝公園 
 元芝住宅
浜川中学校
東大井四丁目 大井林町 大井  林附  東大井林町団地 
東大井五丁目 大井立合町 大井 立会 立会小学校
東大井六丁目 大井関ヶ原町 大井 関ヶ原 関ヶ原公園
関ヶ原敬老会館

南大井1〜6丁目

南大井

 品川区の南東部に位置する高級住宅街である。北部は立会川に接し、これを境に品川区東大井に接する。東部は品川区勝島に接する。南部は大田区大森北・大森本町に接する。西部は品川区大井・大田区山王にそれぞれ接する。町域中央付近を南北に第一京浜と桜新道がそれぞれ通っている。また首都高速道路の鈴ヶ森出入口が設置されている。町域内には京急本線が第一京浜と平行して走っている。地域内には大森海岸駅がある。(wiki)

現在の地名 昭和7年の地名 明治44年の地名(大字・字) 現存地名
南大井一丁目  大井南浜川町  大井 南浜川
南大井二丁目 大井鈴ヶ森町 大井 水神下 鈴ヶ森中学校
 一本松
 大井海岸町  海辺通
南大井三丁目 大井鈴ヶ森町
大井 一本松 鈴ヶ森バス停
 大井海岸町 海辺通 大井海岸公園
南大井四丁目 大井南浜川町 大井   南浜川 浜川小学校
水神下 浜川公園
南大井五丁目 大井寺下町 大井 寺ノ下 水神児童センター
大井水神町 水神下
南大井六丁目 大井水神町 大井 一本松 大井水神公園
大井坂下町 坂下 品川水神郵便局
大井坂下公園


西大井1〜6丁目

西大井

 品川区南東部に位置する。北部は立会道路に接し、二葉に接する。東部は大井に接する。南部は大田区山王に接する。南西部は大田区東馬込に接する。西部は第二京浜に接し、これを境に品川区中延に接する。町域内に光学通り(当地にあるニコンに由来)、滝王子通り、西大井本通りが通っている。また、横須賀線(品鶴線)の線路が通っており、北部の一丁目に西大井駅がある。当地は西大井駅前にマンション、ビルや商店などが見られるほかは主に住宅地となっている。(wiki)

現在の地名 昭和7年の地名 明治44年の地名(大字・字) 現存地名
西大井一丁目  大井森前町  大井 森前 森前児童遊園
 大井森前交差点
西大井二丁目 大井原町  大井   原  原小学校 
西大井三丁目  大井出石町  大井  出石  出石公園 
西大井四丁目  大井金子町  大井  金子 大井金子町住宅
西大井五丁目 大井伊藤町 大井 篠谷  伊藤小学校
西大井六丁目 大井伊藤町 大井 谷垂 谷垂公園
伊藤児童センター

 今回は、町会の皆さんにもご協力いただき、たくさんの掲示板にポスターを貼らせていただきました。おかげさまで、新しく集いへ、ご参加いただいた方もいらっしゃいました。
この場を借りて、お礼申し上げます。有難うございました。
 昔の地名は地形の特徴やその働きによる地名が多いことに気づきます。旧地名の情緒が残っていかないのは、ちょっと残念な気がしませんか?



*** 豆知識 ***


▼滝王子稲荷

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▼滝王子/冨士講

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立会川
立会川の名称の由来には諸説があるが、芳根弥三郎氏の著書『荏原中延史』によれば、源平の合戦の際に、この川を前衛として源氏軍が平家の来襲に備え、この川に対陣すること長きに亘ったため、立会川と命名されたとしている。その後、丘陵には武蔵平塚城が築かれた。応任2年(1468)には太田資持率いる上杉軍が平塚城主豊島泰明を攻めこれを破ったが、このように立会川は、しばしば戦乱に巻き込まれたという。 (旧中延村・芳根家文書参考)

▼伊藤博文公墓所
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■鹿島神社

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 大井6丁目18番36号にある。
神社の旧本殿は文久二年(1862)の建造で、1m30cm四方のこじんまりとした造りだが、唐破風が付き、四面に唐獅子が、柱にも精巧な彫刻が施されたなかなかの逸物だ。この旧社殿は、現社殿造営の際に南に移され、覆屋の内に納められて「奥殿」となっている。新社殿は昭和6年佐々木岩次郎、伊藤平右衛門により神明造りで新造され、都内に稀な名建築と謳われている。縁起は、奥殿の傍らにある江戸時代後期の俳人で大井村の名主だった大野杜格齋景山の句碑、
爐の友にめくり逢ひたるさくらかな
 の陰碑に詳しく、安和二年(969)南品川常行三昧寺の尊栄住職が、常陸鹿島神宮から勧請したと伝える。境内は樹齢150年以上樹木生い茂り、中でも椨(タブ)の木、赤樫、椎の大木が見られる。この他にも江戸時代の石造物が少なくない。鳥居・狛犬・随神像などで、どれも味わいがある。特に天明七年(1787)に大井村伊勢太々講の人たちが奉納した一対の随神像は、珍しい石像だ。
また「惠澤潤洽碑」というのは、明治の初めまでこの付近の農業用水路として利用された品川用水路を記念したものだ。「新編武蔵風土記稿」

■大井囃子

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 享保年間(1716〜36)に、江戸川区葛西の香取明神の神主能勢環(のせたまき)が「葛西囃子」を始め、この神楽囃子が神田明神の祭礼で演奏されて江戸市中や近郊の農漁村に流行し、葛西付近で「松江囃子」が生まれ、ついで「深川囃子・本所囃子」などになり、やがて「神田囃子」が生まれた。この流行は江戸の西郊に広がり「渋谷囃子・目黒囃子・馬込囃子」などが編み出されていった。
大井囃子は、文政三年(1820)土地の豪農倉本彦五郎の発起によって始められ、目黒囃子系の師匠倉本三五郎を迎えて誕生、三五郎が村の有志に教え、囃子連中が作られた。天保八年(1837)になると7人の師匠が出て、大井村のあちこちで太鼓や笛の音が聞こえるようになった。同じ大井村でも東海道に沿った浜川町(立会川河口辺)では文政七年(1824)に始められ、御林町(鮫洲)では、明治3年に始まったと記録にはある。
 戦後途絶えていた大井囃子は、昭和36年に高林平八郎を中心に大井囃子保存会が結成され、伝統の保存・普及が進められ、同60年に品川区無形民俗文化財に指定された。現在の大井囃子の編成は、オオドと呼ぶ大太鼓が1人、シラベと呼ぶ小太鼓がカミとシモの2人、ヨスケと呼ぶ鉦が1人、トンビと呼ぶ笛1人の5人編成。曲目は、まず笛の吹き込みがあって、これに続いて「打込・破矢・乱拍子・宮昇殿・鎌倉・国堅(くにがため)・鎌倉四(し)丁目・玉入の上(かみ)と下(しも)・納め」の10曲。

■大井第一小学校

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 大井6丁目1番32号にある区立校。明治7年大井村の先覚者平林九兵衛は、近代教育の必要を説きその努力によって、同8年大井村全域を1学区とする第二中学区十九番公立小学大井学校として鹿島谷来迎院に簡易普通小学校を開校した。しかし村全域を1学区とした期間は短く同じ8年村内に鮫洲・浜川の2小学が設立され、それが翌年合併して鮫浜小学校になったものの、そっちに転校する者もあって生徒は減少した。しかし住民の流入で就学児童が増え、同12年寺が手狭になったため大野邸に移転。さらに同17年現在地に新校舎を新築して移転した。
昭和7年郡区合併により東京市大井第一尋常小学校と改称。同16年国民学校法により東京市品川区大井第一国民学校と改称。同18年都制施行により東京都大井第一国民学校と改称。同19年集団疎開。同20年アメリカ軍の無差別空爆ため校舎全焼。同10月敗戦による疎開解除で学童帰校。同22年新しい品川区立大井第一小学校と改称。同25年校歌制定。PTAの校舎復興募金により平屋校舎落成。