品川区高齢者福祉団体
品川たんけん隊のサイトです。

大井町 昭和から今

印刷用表示 |テキストサイズ 小 |中 |大 |

▲印刷  ▲文字サイズ
2017-05-10

第23回 品川たんけん隊の集いが開催されました。

日時:平成26年11月15日(土)
   午後2時00分〜4時00分
場所:大井第2地域センター 2階 講習室

tsudoi3.jpg司会:本日のゲストは大塚さんです。
杯一さんの前で喫茶店をやってらっしゃいました。いろいろと昭和のお話をお聞かせいただきたいと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。

司会:われわれが杯一に行っていた頃は、昭和40年頃だったと思いますが、その頃、現在の駅前のあたりは、どんなでしたか?
大塚:ヤミイチでしたね。阪急のあたりがカネボウの工場跡で、煙突だけが一本、しばらく立ってましたね。米軍の攻撃目標かなんかで、真っ黒に塗ってたんですね。

司会:あの頃は、あのあたりは怖いところというイメージだったんですが・・
大塚:そうですね・・やっぱりトラブルの多いところでしたね・・。

司会:ちなみに杯一さんは、いつ頃できたんでしょうか?
大塚:そうですね、昭和40年代だったでしょうか?大阪屋さんというディスカウントショップがありまして、その隣に10坪くらいのところでうどんとおそばを作ってたんですね。杯一食堂が、東口にありまして、そこで出すのを作ってました。社長さんが長靴はいて毎日、毎日作ってました。杯一が、できた当時は、40坪くらいのキャバレーでしたね。隣へ隣へと広げて最後にはだいぶ大きいものになりました。そして、大井町から鶴見、大宮などへ店舗を増やして行きました。先見の明があって努力の人ですね。

司会:僕たちがキャバレーなどへ行き始めたのは、日活の映画の影響で、ダンスホールやなんかのイメージがありましたね。お店をやってらして、芸能人の方などは、お見えになりましたか?
大塚:そうですね。キャバレーは合間、合間にショーがありまして、今日は、歌手のだれが出るとか、落語家が出るとか。いろんな方が、総勢・・200人くらい見えましたよ。ショーの合間に1時間くらいの休憩時間があって、その間に。
また、青江三奈さんや瀬川瑛子さんも大井町に住んでましたね。瀬川伸さん(瀬川瑛子の父)と親子で紅白に出たのが例がない、ということで話題になりましたね。
有名人ということでは、三船敏郎さんや鶴田浩二さん、ディック・ミネさんなども銀座のホステスさんと一緒にうちの喫茶店へお見えになったこともありました。

参加者:銀座へワンコインで行けるということで、銀座へお勤めの女性で大井町に住む方が、昔は多かったですね。
それで、大井町には美容院が多いらしいですね。

司会:当時のホステスさんのお給料は、どのくらい?
大塚:よく知らないけど、一日6000円とか8000円とか固定給があって、指名がつくと2000円ずつアップしていくということで、お客さんをたくさん持っているホステスさんは月に何十万円とかなるんですけどね・・

参加者:品川方面から京浜東北線で大井町の駅に近づくと杯一の大きな看板が見えるんですよ。

大塚:キャバレーが下火になってきた時でも、大井町から始まったからここだけは・・とおっしゃってましたが、平成元年にぱっと閉店しちゃいましたね。
(杯一スタッフとともにとった写真を回覧)

参加者:杯一のあった頃、三菱重工やニコンの工場がありましたし、一本橋通りのあたりは、日本でも有数の繁華街だったそうです。
大塚:あそこに春興館という芝居小屋がありました。一度だけ行ったことがありましたが、すぐになくなりました。
そういえば、大井町には映画館が、たくさんありましたね。大井銀星劇場、三つ又に大井映画劇場、昭榮館、セントラル、武蔵野館もありました。

司会:武蔵野館は、名画座みたいな形で、最後まで残りました。
大塚:武蔵野館の緞帳に店のコマーシャルをのせたこともありました。

司会:東小路はどうですか?
大塚:あんまり変わってないんじゃないですか、昔と。

司会:大井町には料理屋というか団体で宴会できるようなお店が少ないように思うんですが・・・
大塚:そうですね、今はお店の形態がかわってきて居酒屋はあるけど、料理屋はなくなりましたね。
昔は、大森の三業地に大きな料理屋がいっぱいあって澤田屋ってありましたよね。
小学生の頃に父親に連れられて食べに行きまして、お座敷の下が海なんですよね。要するに第一京浜の脇が海だったんでしょうね。昭和の時代になってだいぶ変わってマンションになってしまいましたが。悟空林なんかもありました。

参加者:旧道と第一京浜の重なるところですね。国道の向こうは海でしたからね。
いすず病院の裏あたりに、検番があってね。今でも芸者さんいるみたいですが。

司会:大井町線の下にある地下街は、どうでしたか?
大塚:あの地下の飲屋街も代がかわって、昔とは変わりましたね。昭和の時代からすると、変化してるんですね。
遊び場が、どんどんなくなって規則がふえて不自由になったですね。
子供の遊ぶ場所も公園くらいしかないし、駄菓子屋さんもなくなって。花火もだめ、野球もだめですし。
大人の方も、キャバレーもなし、ビリヤードもなし、ボーリング場もなし、お酒とか遊ぶ場所がなくなって、人とのつきあいが薄くなって。

<休憩>

参加者:昔、大仏から大井行きの乗合バスが出てたんだけど、まだ、大通りになってない頃に桜井さんちの前でUターンしてたんですね。
今のバスの大きさで言うとマイクロバスくらい。路線バスが私の家の前の坂をずーっと通って、大仏の馬込の方から来まして、で第一京浜へ出て、今の消防署の角からあがって、古い方の大井の陸橋をあがってきてJRの改札がありますが、あそこにターンテーブルがあって。そこでバスが方向転換して。

参加者:そのバスは、城南乗合自動車って言って。
市立の中延(現在の朋優)学園が終点なんですね。原町の四つ角の所で大森の山王へ行くのと、あそこで分かれてたんですね。
その頃、大人が一区で、大井までが一区で、大人が10銭でしたかね。お子さんが5銭で。一区だと子供が3銭で、大人が5銭。木炭で走ってました。支那事変が始まって大東亜戦争に入ってから木炭車になりまして、第一小学校の坂道、木炭車だとあがれない。お客さんが降りて後から押したりなんかして。その頃初めは、アメリカのバスだったんですよね。1号車がフォード、2号車がシボレー、
3号車、4号車になってから日産とトヨタ。その頃、浜川のお祭りがあると乗って行きましたね。

大塚:自動車で思い出しましたけど、大井のオートレース場って行かれた方、あります?
オートバイです。
住友:子供の頃、行ってました。金網にしがみついていると、危ないからさがれと注意される程度で、フリーに入れました。大井競馬場で馬に乗せてもらったりしました。

参加者:オートレースって、どの辺りにあったんでしょうか?
司会:場所は、今のホーマックの横の駐車場のあたりにありました。
首都高速から見えるんですよ。車を止めて、オートレース見てる人がいたり。

司会:昔は、中の島なんてあって、釣りもいっぱいできたし、平和島のあたりは、泳げました。
中の島のふっこ釣りってのも、ありましたね。
こういう話をいっしょにできる方が、少なくなりました。

大塚さん、本日は、興味深いお話を有難うございました。
今回、ポスターを見て、新しく参加してくださった方が5名、お見えでしたので、簡単な自己紹介をかねて、今後の品川たんけん隊へのご要望などもお伺いしました。
ありがとうございました。





*** 豆知識 ***


▼杯一(ぱいいち)
paichi1.jpg

▼キャバレー
キャバレーとは、日本において1960年代から1970年代に流行した、ホステスが客をもてなす飲食店。料金は時間制で"明朗会計"、ショーを行うステージや生バンド付きのダンスホールがあり、より大衆化した1970年代以降は、お色気サービスを伴う店も登場した。
wiki/キャバレー

▼大井町の映画館
大井館、大井富士館、大井キネマ、櫻館、東郷館、昭榮館の6館が存在。1950年代頃は、昭榮館が戦前から残った他、新東宝の封切館だった大井映画劇場、大井セントラル劇場、大井ミリオン座、大井スズラン座、大井銀星劇場などがあった。大井武蔵野館はこの頃に開業したといわれている。
▷wiki/大井武蔵野館

▼三業地
東京で三業といえば待合(茶屋)ー料理屋ー芸妓屋(置屋)の組み合わせからなる花街のこと。

▼「澤田屋 福久良」さわだや ふくくら
渡り蟹が自慢の料亭。当時環七通りを澤田通りと呼び第一京浜国道の突き当たりが終点で、東京湾の海岸線に料亭があった。のち、第一ホテルと提携、ホテル内に料理屋として営業し、ホテル撤退とともに廃業。

▼検番
検番(芸妓、料理屋を管轄する機関)
料理屋・芸者屋・待合(まちあい)の 業者が集まってつくる三業組合の事務所の俗称。芸者を登録させ、 客席に出る芸者の取り次ぎや玉代(ぎょくだい)の計算などの事務を扱った所。<デジタル大辞泉>

▼大井オートレース場
1954年(昭和29年)に誕生し10月29日に初開催された、東京都内唯一のオートレース場である。1973年3月22日に、19年という短い歴史の幕を閉じた。
スクリーンショット 2014-11-25 23.59.03.png

▷wiki/大井オートレース場

▼城南乗合自動車
城南乗合自動車が、倉田・大仏 (おおぼとけ)間さらに大井町・立会川間を運行。
jyonabus.jpg