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大井町 昭和から今

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2017-05-10

第28回 品川たんけん隊の集いが開催されました。

日時:平成28年3月19日(土)
   午後2時00分〜4時00分
場所:大井第2地域センター 2階 講習室

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司会:本日のゲストは、田中茂雄さんです。
今日は、戦時下の学童生活と題して、お話しいただきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
(*学童疎開についてのお話は、白旗さんにご協力をお願いしました)。

お話の演題

田中3.png田中
以下の内容を順を追って、お話させていただきます。
どうぞ宜しくお願いします。

1. 学制
尋常小学校(義務教育6年) 国民学校(義務教育6年) 
旧制中学(4年) 高等小学校(2年) 新制中学(義務教育3年)
通信簿の成績評価・・・甲・乙・丙 優・良上・良・良下・可

2. 教科書
一年生で片仮名 二年生で平仮名
サイタ サイタ サクラガサイタ。 コイコイシロ コイ
ススメ ススメ ヘイタイ ススメ その昔は、ハナ、ハト、マメ、マス
つくし だれのこ すぎなのこ。
図画・・・一年生クレヨン。二年生・・・クレパス。三年生・・・(水彩画)絵の具

3. 敵性用語
英語の使用禁止 お店の看板書き直し、取り外し。
アメリカヤ。英国屋。欧文社>旺文社。
バレーボール(排球)、バスケットボール(籠球)、フットボール(蹴球)、マット(敷物)
音楽のドレミファもイロハニホヘト
撃沈したイギリスの戦艦プリンスオブウェルズも英皇太子号

4. 旧仮名づかい
大森(おほもり)、大井町(おほゐまち)、王子(わうじ)、尾久(おく)、東京(とうきやう)、
有楽町(ゆふらくちやう)、甲府(かふふ)、銚子(てふし)
菓子(くわし)、弁当(べんたう)、蝶々(てふてふ)
こちらの方(はう)へ、私は、致しませう。円(ゑん、YEN)、恵比寿ビール(ヱビスビールYEBISU)

5. 学校給食と食料事情
学校給食は、昭和19年に始り、1年でやめました。
お米の配給は、一人1日二合一勺、後には一合七勺
各家庭では、麦めし、豆めし、大根めし、など増量を工夫しました。

6. 皮膚病
しもやけ、白雲、田虫、飛び火
当時の暖房は、火鉢、こたつ、湯たんぽ 学校では、石炭ストーブ

7. 標 語
「欲しがりません勝つ迄は」お菓子、遊具等、段々なくなってきました。
兵隊さんからゴムまりを、又、皇后陛下からキャラメルを戴きました。
街では、立て看板で「備えあれば憂いなし 」や「ぜいたくは敵だ」とか、「足らぬ足らぬは夫が足らぬ」など

田中:昭和の真ん中あたりになると町に立て看板が、ふえてきます。「備えあれば憂いなし」と言うのは、窓ガラスが爆風などで割れて粉々に散って怪我をしないように、障子紙で×だとか縦・横、十文字に貼ったりしたことなどを指しています。それで、今度、「贅沢は敵だ」これに、いたずら書きをして素の文字をいれて「贅沢は素敵だ」にしたり、「足らぬ足らぬは、工夫が足らぬ」何でも工夫すればなんとかなる・・の意味ですが、工夫の工の文字を消して「足らぬ足らぬは、夫が足らぬ」にしたり、若い人はみんな兵隊にとられちゃって男性がいませんから、結婚できない女性がたくさんいました。

8. 体操(教練)
相撲、剣道、女子は、長刀(なぎなた)など教科に入りました。

田中:その次、体操について。結局、精神と体力ということで日本の古代からの武道、相撲、剣道などを体操教育にとりいれていました。私も木刀とか竹刀で剣道をやりました。

参加者:柔道はなかったんですか?

田中:相撲は、ありましたけど、柔道は、なかったですね。
それから、女子は長刀でした。
隣組では、竹槍の練習をしておりました。新聞記事には、竹槍の練習など無駄だからやめろ!と出たこともありました。敵が攻めてきたら、銃を持ってるから、そばまで行くまでに打たれちゃうから・・ということでしたが、その記事がでたら、3日間の営業停止になりました。

9. 強制疎開
東海道線の両側50米(メートル)内の家は取り壊されました。
また、池上通りから日本光学(三菱重工)へ道を作る為、こちらも壊されました。

田中:今でこそ、東海道線は新幹線が走っておりますが、当時は、物流の幹線でありまして、ここへ爆撃されて線路へ残骸などが落ちると困ると言うので、線路脇の家屋は、全部壊されました。お国の為と言うことで、誰も文句は言いませんでした。戦争の為、火災にならない為と言うことで、家財道具なども斧で割ったり、家の柱も鋸で切ったりしてロープをつけて10人がかりで引き倒しました。豪華な欄間の立派な家もみんな同じで、もったいないことでした。
 また、池上通りから日本光学のところには三菱重工の戦車工場があったんですが、ここをめがけて道をつくることになりました。私どもには、戦車工場の件は知りませんから、なんで道をつくるのか不思議に思いました。戦車を通す道でした。重戦車でないと戦えないが、頑丈な道でないとその重量に耐えられない、ということで新しく道をつくっていたんですが、道が完成するまでに戦争が終わってしまいました。

10. 道路
バス路線、木炭自動車
池上通りは、昭和11年に旧道を拡幅して三ッ又から池上まで完成させました。旧道を約4倍に拡幅したものです。
旧道は品川区と大田区に一部残っています。
バスは、池上通りを走って居りませんでした。大井町東口を出発点とし青物横丁に出て、第一京浜を走り、立会川よりJRガードをくぐり、大井第一小横の坂を登り、瀧王子通りを直進、原小学校入口の所で一系統は直進で馬込行、もう一系統は左折して大森山王行でした。
大井第一小学校の所の停留所名は、札場と言いました。
戦争が激しくなるとガソリン車でなく木炭バスとなりました。木炭車は馬力が出ず、学校横の坂が登れず、みんなで押したものです。

田中:今のバス路線は、大井から大井第一小学校の前を通って、大森駅、池上駅を経て終点、蒲田まで通っています。昔は、この池上通りにバスは通ってなかったんです。大井の東口から青物横丁へ出て第一京浜を立会川まで来て、そこから大井第一小学校の横の坂を登って、そのまままっすぐ、原小学校入り口まで行って、そこで馬込行きと大森山王行きに分かれて2系統が走ってました。で、なぜその道を通っていたかというと今は大井陸橋がありますが、当時はできてませんでしたから。あの道はなかったんですね。三つ叉のお地蔵様のところから始まって、池上駅のちょっと手前までを旧道がありました。旧道の4倍に拡幅されて今の池上通りになったのが、昭和11年だときいております。当時は、ボンネットバスで運転手さんと車掌さんがのっていました。第一小学校横の道は、現在、大型車は通行禁止になっていますから、当時のバスは、小さかったんでしょうね。
 私たちが子供の頃、オート三輪、それから乗用車もダットサンと言って今の軽自動車クラスのしか走ってなかったですね。たまに荷馬車が通りました。タクシーは、走っておりませんでした。大井第一小学校の前に安藤タクシーが、ありましたが、あまり走ってませんでした。乗り物は何か・・と言うと人力車なんですね。大森駅には、たくさん人力車が止まっておりました。今で言う流しのタクシーに相当する乗り物でした。注文する人力車は、今の大井7丁目郵便局の前の黒い建物のところが車屋さんでした。私も母親に頼まれて依頼に走ったものでした。当時、お商売の店くらいしか電話もなかったものですから。そんな時代でした。

白旗1.png白旗
白旗と申します。学童疎開について、田中さんからバトンタッチでお話したいと思います。どうぞ宜しくお願いします。

学童疎開について

白旗:学童疎開に行ったのは、昭和19年で、小学5年生の時でした。8月の中旬頃、新撰組の土方歳三の出身地と言えばわかりやすいでしょうか?日野市の豊田の七生村と言うところですね。平山城址公園、そこに大きな平山橋があります。その橋のたもとに安田さんの別荘があり、大井第一小学校の生徒が、集団疎開したんですね。6年生が27名、3年生が21名、48名でいっしょに生活しました。この写真(*右の写真を参照)を撮るので、普段とは違う格好でおめかしをしました。品川区で学童疎開資料集というのを作ってくれたんですが、その中にもこの写真がでています。
(*資料集は、品川歴史館にも図書館にもございます。)
翌年の8月15日の終戦を聞いてから、すぐには帰れず10月の中旬頃、帰ってきました。私たちは、新聞の記事を見て、はじめて終戦がわかりました。
 当時のことを先生がしっかりと書いてくださってたのでいろんな資料が残っていたということなんですね。 当時の先生の文章を読みますと、「70年の古い歴史を持った大井第一国民学校も先月、空襲により灰燼と帰して紙類全部焼失の為、事務にもことかく状態でありますので、平山便りをお送りするのは今月限りとなるのでないかと思います」他にも「今月(昭和20年6月)からは大豆、とうもろこしが主となり、米が申し訳ほど入る程度になりましたので、栄養と胃腸障害を心配しております。15日分の配給の内訳を見ますと、大豆が10日分、とうもろこし3日分、米2日分、なにかよい知恵がありましたら、お聞かせください」と父兄にそういう便りを出しているんですね。「飛び火(皮膚の疾患)が6名でた」「体重測定をしても増えない」など、先生がいろいろ書き残してくださってるんで、こうやってお話できるんですが、詳しいことは、すっかり忘れちゃってるんですね。苦しかったから、忘れちゃってるんじゃないかと思うんですけど。全部、忘れちゃうんです。ただ、食べるものがなくて困った〜ということだけはおぼえてるんですけど。
食べるものがないので、おやつにワカモト(くすり)を食べたり、お話すると、うそでしょ?!と言われるんですけど、歯磨き粉をほんの少し食べた覚えがあるんですよ。
 私達は、入った時は、4クラスあったんですが、卒業の時には、2クラス、一番最初に10月に疎開から帰ってきた時は、男子も女子もなく1クラスでした。学校は、浜川小学校へ帰りました。それで毎日のように少しずつ疎開から帰ってきて卒業するときには、男子1クラス、女子1クラスができました。学校もきちんと卒業できない、写真もない、アルバムも、なんにもありません。
そういう時代でした。

田中さま、戦時下の学童生活について興味深いお話をありがとうございました。
学童疎開について、白旗さまにご協力いただき、ありがとうございました。
また、たくさんの皆様にご参加いただき、有難うございました。



*** 豆知識 ***


資料

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▲書かれている内容
「このかたき、うつのは僕ら、少國民」
「米英を、やぶる僕らは少國民」
「断じて行へば鬼神も之を避く」

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木炭自動車(もくたんじどうしゃ)とは、木炭をエネルギー源とし、車載した木炭ガス発生装置で不完全燃焼により発生する一酸化炭素ガスと同時にわずかに発生する水素(合成ガス)とを回収、これを内燃機関の燃料として走る自動車である。
1920年代から1940年代にかけ、戦時体制にあって正規の液体燃料(ガソリン、軽油など)の供給事情が悪化した国々で広範に用いられたことで知られている。
なお木炭ガス発生装置を使用する車両の正式名称は「石油代用燃料使用装置設置自動車」と言い、略して「代用燃料車」あるいは「代燃車」と言うが、バスの場合は木炭バスや薪バスと呼ばれていた。(wikiより)

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▲胃腸薬わかもと