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大井町 昭和から今

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2017-01-19

第26回 品川たんけん隊の集いが開催されました。

日時:平成27年7月18日(土)
   午後2時00分〜4時00分
場所:大井第2地域センター 2階 講習室

白板.jpg


司会:本日のゲストは、田口 朝子さんです。
今日は、ゼームス坂春秋と題して、お話しいただきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

横.jpg田口
昭和5年生まれの品川小学校の出身でございます。祖父の代から南品川に住んでおりまして、私で三代目です。どうぞ宜しくお願いします。

 北も南もずっと焼けることもないし、空襲もないし関東大震災の時も焼け野原になったわけでもないし、ずっとそのまま残ってきた大変めずらしい場所なんですね。大げさに言えば、江戸時代からそのまんまのような、そこへいろんな新しいものが、できてきた、というのが南品川、北品川というところです。
 もとは宿場町でしたから、そこに住んで祖父の時代、父の時代と職業を受け継いできてらっしゃる方々というのは、もう随分長い時間がたっていますが、気持ちの上でもきちんと古い時代のものを受け継いで残してらっしゃるんですね。
 最大の原因は、お祭りにあると思います。品川のお祭りは、ご存知でしょうけど、品川神社と荏原神社ですね。北は、品川神社で目黒川のこっちは荏原神社ですね。

北は品川神社で目黒川のこっちは荏原神社ですね。祭りを受け継いでる方々が、町内で、ずーっと役員をやってきてます。踏襲してきてますから、昔からの流れが、ずっとあるんですね。祭りを中心にして、なんとか町おこしをしよう!ほかの催事などはまったく考えない、ですから宿場祭りというのが、できているわけですね。未だに町では一生懸命がんばってます。

 それから、ゼームス坂と言えば、高村光太郎さんと、その奥さまの智恵子さんですが、小学校の3年生くらいの頃、智恵子さんがまだご存命で、大井の病院に入院してらして・・きっと高村光太郎さんもこの坂を通ってお見舞いにいらしたのかもしれない・・と思いますから、地元にそういう方がいらっしゃると、教科書で高村光太郎の詩を習っても、ものすごく親近感があって、高村光太郎は一番最初に印象深く受け止めてから、一生私の心の中の大きな存在で、ナンバーワンです。それと智恵子さん・・その方たちの作品を中心にいろんなものを読み出すという・・文学が好きになったきっかけは、それでしたね。

それから、ゼームス坂の上と下では、まったくの別世界でした。
ゼームス坂に上の方は、広い塀に囲まれた立派なお屋敷がいっぱいで、下の方は、下町の感じでした。学校から帰るといつも鞄を置いて、すぐに坂を上っていきました。全く違うお屋敷の雰囲気が不思議で、だれも通っていないお屋敷の道を通りながらお屋敷の中は、どんなだろうと思いながら歩きました。

今は大きなマンションになってますけど、東芝の社長さんの大邸宅が、ございました。ものすごく大きな家でした。そこは、戦後、アメリカ陸軍の大将クラスの家敷として接収されて、かなり長い期間、陸軍大将が、使ってました。その隣が、ヒラノ石鹸のお屋敷がありました。そこも接収されて二つのお屋敷がアメリカ軍の高級将校のお屋敷になってました。出勤時間には、キャデラックが迎えにきまして、大型の車を初めて見ました。珍しいというので、大人も坂を上って見に行きましたね。終戦の頃は、そんな町の様子でした。

 それから、私のもっと子供の頃は、この品川、北の方の品川よりも、ずっと商店街が発達してました。私たちは全然、気がつかないんですが、今は品川銀座っていう通りになってますけど、当時は、南品川へみんな買い物にきました。そこには、ありとあらゆるお店があったんですね。百貨店みたいに全部、揃ってました。その中には、寿司屋さんも4軒ありましたし、八百屋さんも3軒ありました。それから薬屋さん、本屋さん、布団やさんも呉服屋さんもある、洋品店もある・・で、昔は、皆さん革靴なども靴底を直しましてね、そういう職人さんもたくさんいましたし、風呂桶屋さんなんかもある、大きな焼き芋屋さんもある、そんなわけでとても楽しい場所でした。ですから、そこへくれば何でも揃ったわけです。糸屋さんも専門の糸屋さんがありましたし、釘屋さんも専門店がありました。牛乳屋さんも2軒ありました。それから中華料理屋が1軒あって、竹の屋さんていう甘いもの屋さんがあって、桜井さんっていう大きな肉屋さんがあって、ここのコロッケがすごく有名で、すごいおいしいコロッケでしたね。相当、遠くからも買いにくるほどで、ほんとうにあのコロッケの味は忘れられないですね。

 そして、4の日、縁日がございまして、この縁日の時が、またすごいんですね。両側にずーっと店がでるんですけれども、もちろんバナナのたたき売りもありました。昔は、バナナが高くて、果物屋さんなんかではとても買えませんでした。縁日の時のたたき売りでもって、一房買って、それもとても楽しみだったですね。それから、おもちゃ屋さんも、かなり精巧なおもちゃを売ってました。ほんとに欲しいおもちゃが、いっぱいありました。今は、食べるもののお店ばっかり並んでますが、そうじゃなくていろんな物を売っていました。お鍋や瀬戸物や、羅宇屋(らおや)といってキセルの磨きなどをやってくれるのとか、新粉(シンコ)細工の飴屋さん、鳥を作ったり実演でやっていました。小さな屋台でお寿司屋さんみたいに清潔な白い衣装で、いろんな天然の色素でもってスイカやいろんなものを作るんですが、一個いくらで、ちょっと高かったですが、お小遣いを2日間くらいがまんしないと買えなかったです。非常においしかったです。ものすごく清潔な状態でやってましたが、私が小学校6年生くらいの時、車がゼームス坂をどんどん通るようになったこともあって、衛生上よくないということで、なくなってしまいました。屋台で残ってたのは、火を使う焼きそばやお好み焼きで、今のとは違ってもっとシンプルなものでしたが、一番おいしかったですね。だから、縁日までにお小遣いを5銭貯めたかったけど、貯めるのが大変で・・・当時、お小遣いは、一日一銭くらい・・今で言うといくらくらいかしらね?ちょっとお手伝いすると二銭か三銭になることがあって、その為に、お手伝いをよくしていました。

 そこで、私が本当に欲しい物があって、薬剤師さんがつかう天秤ばかりなんです。ちいさな重りがたくさんありまして、ピンセットでそれをはかりにのせて薬をはかるんです。見てると、本当に飽きないんですね。「これ好き?」と聞かれて「欲しいな!、欲しいな!これ、欲しいな」小さな葉っぱもはかれるし、割り箸一本どのくらいの重さ?って思って、欲しくって欲しくって。精巧にできたおもちゃで似たようなのが、あるんですが、値段が5銭なんです。でも、5日間お小遣いをなんにも使わないわけには、いかない・・。小学生にとっては、5銭を貯めるのは、ほんとに難しいことでした。それで、とうとう手に入らなかったんですけどね。それが、つい最近、古道具屋で本物のを見つけましてね。それを買いました!それを、これから遊びにしようと思っているんですが。これだけは、昔からの夢でしたから、いろんなものの重さをはかって楽しもうと思っています。そんなわけで、このゼームス坂下の縁日は、ほんとうに賑わったものでした。大森の方からも人がきました。北品川の方からもきました。

 そして、その裏手の方には市場もありました。そこもなかなか賑やかでたくさんお店がありました。両方が両立するような場所でした。その中でも特に大きな八百屋さんが、ありました。看板も畳二畳くらいある立派なもので、屋号が書いてありました。非常に大きな八百屋さんで、裏の方には二階建ての家作があって人に貸してらっしゃいました。作りが立派で写真があれば残しておきたいものでした。見事な品川で一番の建物ではなかったかと思います。あれだけの店構えの八百屋さんは、今まで見たことがありません。日本橋あたりでも見たことがありません。いろんな方に聞いてそのお店の写真をさがしているんですが、みなさんおじいさまが亡くなった時に処分してしまったとおっしゃるんですよね。まだまだ、探せばあるんでしょうかね、ほんとに残念に思っています。

 あとは、私たちは、朝起きると、家の近所をきれいに掃いて、打ち水をしましてね、全員がそれをやってますからね、小学校へ行く時に「いってらっしゃい」「いってらっしゃい」「いってきます」と言って、たいして知らなくても挨拶してましたね。学校で教わらなくても「おはようございます」と通勤の人に声をかけてましたね。町でやってましたから、自然にそうなっていたんですね。
今は、それがないと思います。「ありがとう」「ごめんなさい」の一言が少なくなりましたね。
「ありがとう」の言葉が、「すみません」にかわってしまって、残念なことだと思います。

 私が、歴史をやって思うのは、昭和史の中に、昭和5年、6年の子供たちのことを記録しておくべきだと思います。なぜかというと学徒動員の最年少だったからです。今で言う中学2年生の4月1日から、5年生まで、私たちは当時、王子にあった軍需工場へ行きまして、飛行機の機銃の部品をピンセットで付ける作業をしておりました。大学生は、旋盤をまわして指をけがしたり、肩を痛めたりしていました。男の子の方が、仕事は厳しかったと思います。部品をこぼして落とすとみんなでさがすんですよ。踏んで発火したら火傷しますから・・。それくらい危険なものでした。私たちは、「こわい!」と言うより「一生懸命やる!一生懸命やる!」そう思ってましたね。
私たちは、王子のほうまで行きますから、途中で空襲にもあいますね、帰りに列車が止まっちゃう時もあるわけです。2度、王子から家まで歩きました。王子を6時に出て、それも雪の日で、帰ったのが午前2時半です。家に帰った途端、すごい熱を出して2日間くらい、うなってたらしいです。それでも、朝になると「工場へいかなくちゃ・・」とうわごとを言ってたらしいです。ずっと後になって、聞きましたが、「いってらっしゃい」を言う時に、「あぁ、無事に帰ってきて欲しい・・」と祈ったもんだと。私は、子供ですから「いってきまーす、がんばってくる!」と出かけましたが、親がそんな思いをしてるなんて全然知りませんでした。昭和34年に母が亡くなってお通夜の時に、母と一番仲の良かった叔母から聞かされて、泣きました。
ところが、1年下の人たちは、学徒動員を経験してませんから、まるで違いますね。そんな思いもなにもないですから、ものの感じ方やなにかが・・。
それは、ほんとにすごい体験でした。

 当時は、宿場通りの大きな家でも建築上、家にお風呂を作る・・ということはなかったですね。かなり大きなお店でもお風呂は作らずに銭湯へ行ってましたね。そのかわり銭湯の数は、たくさんありました。あさひ湯(何年か前、廃業)ゼームスさんのお宅のあった真向かいあたりにこじんまりとしたお風呂屋さんが、ありました。ちょっと下がって品川一のものすごく大きな六角湯と言うお風呂屋さんがあって、曲がって第一京浜へでる間に、ここに大きなさくら湯というお風呂屋さんがあって、小学校の同級生のおうちでした。平行してある仙台坂、ちょうど今、町田学園があるあたりにもお風呂屋さんが、ありました。大井町の方へ行きますと郵便局の近くにもお風呂屋さんがあって。とにかく近所のお風呂屋さんへみんなで行くことで、当時のお風呂屋さんは、なりたっていたように思います。小学校へ行くようになりましてから、お風呂屋さんで北へ通ってるお友達と知り合うようになって、「今日は、どこのお風呂屋さんに行く?」と仲の良いグループで北品川と南品川のお風呂屋さんの、ほとんどに入りましたね。6年生になるまで、ほとんど入ってました。
 昔は、銭湯は、朝10時くらいからやってましたね。年の暮れは、もっと早く朝6時くらいからサービスでやってました。お正月、休みますのでね。私たちの小さい頃は、労働者もいっぱいいた時代ですから、朝湯っていうのは6時くらいからあったんじゃないでしょうか?夜は10時くらいまで。戦後は、午前中っていうのは無くなりました。でも、このあたりは焼けなかったもんですから、お風呂屋さんもたくさんあって、他の区の方も、みんな入りにきたものです。ですから、ものすごく混んで混んで、すごかったです。脱衣かごに衣装を入れるんですが、盗難防止のためにひもをかけたりしたものでした。焼け出された方も多くいたので、必要に迫られて・・ということで責められないと思いましたね。いつも満員でした。石鹸も貴重なので、湯船に入る時、もって入りました。その石鹸もまぎらわしい石鹸で(闇で買ったものもあった)使うと肌がピリピリしたりね。ですから、うちの母はとってあった糠(ぬか)で、糠袋を作ってくれました。顔から全身、糠袋で洗いました。戦後、いい石鹸がでてくるまで糠袋を使っていました。それで、育ったので、ありがたいと思いました。おかげさまで、私は化粧品は何もつけません。およばれで素顔では失礼な時だけには用意してありますけど、一年に何回もないですね。おばあちゃんにも言われましたが、「顔なんかいじっちゃだめだ・・」と。眉と口紅だけは、働きだしてからはしてましたけどね。

 あちこちのお風呂屋さんに行きましたでしょ?ですから、みなさんがうらやましがるような状況をたくさん見てます。とくに芸者さんの洗い髪姿など、でもそれは南の方にはありません。料亭や見番があるのは北の方ですからね。宿場だって江戸時代も北のほうですから、その頃からの流れがあるわけですからね。
北の方のお風呂屋さんに行きますとね、南の方にはいないお姉さん方が、いらっしゃるんですね。印象でいいますと、竹久夢路の絵に出てくる女の人のような感じなんですね。浴衣の着方も、どこか違うんですね。肌も少し青みがかったような、色の白さでしたね。
後で、同級生の料亭の息子に聞いた話では、芸者になりたくて芸者さんになった人は、ほんとに少なくてほとんどが、東北の方で、家の為にそうなった方たちだったそうです。年季があってそれがあけるまでは田舎にも帰れないし、手紙も年に一度あるかどうか・・だったらしいです。
私たちは、子供でしたから「おねえちゃん、おうち、いつ帰るの?」って言うと「ご用が忙しくて、おうちには帰れないのよ。あと何十年しないと帰れないの」と言ってましてね、子供のことで理由はわかりませんから、「ふーん・・」なんて言いながら聞いていた会話も憶えてますけどね。私たちに対して、にこやかで非常に優しかったです。お菓子などを「いらっしゃい、お食べ」とくれるんですが、見たこともないようなきれいな餅菓子や、こんなのがあるんだ!っていうような珍しいおせんべなどをいただきました。そのお姉さんたちとお風呂屋さんでいっしょになると、田舎の妹や兄弟のことを思い出すのか「ちょっと体を洗わせて・・」っていうんですね。とても丁寧に洗ってくれるんですよ。そういうところがほんとに印象に残りましたね。いかに孤独で厳しい世界か、でもいったんお店に出れば華やかで競ってやってたんでしょうけど、あの頃のああいう方々は、ほんとにすごい人たちだったなぁと思います。教養とか学歴とかではない、人間として最高の情を持っていたと今でも、思い出します。
 なかでも、一人のおねえさんにすごくかわいがられていたので、親しくさせてもらっていました。お化粧を始めるのも見ていましたが、上半身全部おしろいを塗るんですね。髪を結うのも、着付けるのも全部、男衆がやってました。いつも優しいおねえさんが、いったん鏡に向かった時の顔、あれはほんとに忘れられない。あんな真剣な女性の顔を見たことがなかったですね。こっちまでその緊張が伝わるような・・。ですから黙〜って見てました。鏡の中の自分の姿を見据えて、身動きしないんですね・・あの表情だけは、絵が描けたら絵に、カメラがあったら収めたいと思いました。雑用をこなしてから、さっとご自分でお化粧してお座敷に出る芸者さんもいらして、やはりいろんな位があったのかもしれません。両方の芸者さんを見ました。

 今は、北品川にも銭湯は、そう何軒もありませんね。荏原神社のところにLinkIcon天神湯ができましたが。天神湯は、うんと掘ったら黒い鉱泉が出て、東京一の質の高い手つかずの鉱泉ですからね。あの大田区と同じ黒いお風呂は万病に効くと言ってもいいそうです。私は、あれで骨折治しましたよ。交通事故などにあったいろんな方が、あそこに入って治してますね。肩こりなんかも。大田区の方、比較的健康な方、多いです。近くて、鉱泉も濃いし、湯船も大きいです。健康維持の為に、時々利用していますが、黒い温泉に入ったら、他に行く必要がまったくないです、私にとっては。なんでも効くんですね。一番の特徴は、あんなに体の温まる温泉は、ありませんね。一度、いらしてみてください(笑)。ほんとに指先の毛細血管まで血液の流れが良くなります。のんびり行って、体を洗ったら、湯船を出たり、入ったり、出たり、入ったりして1時間くらいいなかったら効果はないですよ。

 あと、健康法としては、食事を昭和の時代のメニューに全部変えてしまいました。たまにカツ食べたいな!とか月に一度くらいはご馳走も食べますが、あとはほとんど昔の時代の食生活です。そのおかげで健康で薬も飲んでおりません。白米は食べておりません。七分づきを食べています。あの胚芽が、どんなに貴重か?!最近は、柔らかく炊ける玄米もありますから、月に一度くらいは具だくさんの味噌汁や納豆といただきます。あとは乾物類ですね。そういう子供の時の食べ物をいただいています。間食はせず、お砂糖はあまり使いません。自然のもので十分なので。まぁ、常備薬としてはドクダミの葉っぱを煎じて飲むくらい。あとは、梅干しでしょうか。それと日本茶。だしは昆布を使うことが多いです。

 女学校が競歩の盛んな学校でしたので、そのおかげで足が鍛えられた・・と言うこともあるかもしれないです。おかげさまで、歩くのが好きで、ご近所の方にもタッタッタッと歩くと言われております。転んじゃいけませんから、私としては大股でゆっくりと歩いているつもりなんですけども。今でも、ダイシン(大森の百貨雑貨店)までは歩きます。自転車の方が、今は多いですが、やはり歩いている方が発見も多いですし、面白いです。ぼけ防止にも、健康にもいいと思います。年齢になりましたから、動物が好きですけど飼えませんのでね、犬のお散歩させてる方がいると、犬に話しかけたりして生年月日をメモしたり、写真をとったりしていると、いろんな情報が入るんですよ。腰痛の話から、上手な先生を教えてもらったり、おいしいコロッケの話がでたり、ほんとうに楽しいです。
みなさんから声かけていただける年寄りになったことを幸せに思っています。

 あとで思ったことですが、職業に上下はないと思います。それは、ほんとうに感じました。どんな職業も軽蔑してはいけないと、思いました。人間て誰でも親を選んで、生まれてこられないってことを痛切に感じました。それは、私が教師になった時に、もっとも役に立ちました。子供に接する時や、親に接する時にも。一番大事なことは、謙遜することを忘れてはいけないと思っています。自分の目下に対しても。どんな人でも話し合って見ると、すごい経験を持っていたりするんですね。
 ですから、今、私が教師だったら、もっともっと真剣に子供たちに、いじめなどのない学級を作ってみたい!と思います。いろんな話をこんこんと小学生に話をしたいくらいです。それが今の子に合うかどうかわかりませんけど。
今は、いろんな上下があるんですけど、そんなのたいしたことないですよ。それぞれの人間性を尊敬する人間で一生を終わりたいなと思っているんです。
 今日は、どうも有り難うございました。

幼い田口さんの生活を通して見てこられたゼームス坂とその界隈、南品川の様子がいきいきと語られた貴重なお話の回になりました。長い時間、熱心にお話くださった田口さん、ほんとうに有難うございました。
機会がありましたら、また、楽しいお話を聞かせていただきたいと思っております。



*** 豆知識 ***


ゼームス坂
ゼームス坂.jpg

 この坂は、もと浅間坂(せんげんざか)と呼ばれていて、非常に急な坂でした。
明治時代、この坂下付近に住んでいたJ.M.ゼームスという英国人が私財を投じて緩やかな坂に改修しました。それ以来この坂はゼームス坂と呼ばれるようになりました。
 J.M.ゼームス(1839~1908)は、幕末にジャーデン=マディソン商会の長崎支社の社員として来日し、明治5年(1872)に海軍省に入って、測量調査や航海術の指導を行いました。生前から仏教に帰依し、その墓は山梨県身延町の久遠寺にあります。(品川区HPより)

▼ゼームス坂(現在)
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昔のゼームス坂

江戸時代の地図

map2.jpg目黒川が蛇行している様子が見られます。

昭和7年の地図

map1.jpg水害予防の工事の為、目黒川がややまっすぐになっています。

▼新粉細工
 白米を臼で引いて粉にしたものを水でこね、蒸して搗いた餅のようなものに、砂糖が入っていて甘い味がついています。この生地を使用して色々な形にして天然の色素で着色していました。作るものも干支や縁起物や野菜などがあり、注文すると手早く形を作り色を付け竹串の先に付け渡してくれました。

▼羅宇屋(らおや/らうや)
羅宇.jpg
らう屋、またはらお屋とも読む。かつては、羅宇のヤニ取りやすげ替えを生業とする露天商があって、羅宇屋と呼ばれていた。小型のボイラーから出る蒸気で羅宇を掃除し、その際に鳴る「ピー」という笛にも似た音が特徴的であった。らお屋は戦後に急激に数を減らし昭和39年には東京で4軒だけとなった。そして最後の羅宇屋は、浅草寺門前で営業していたが2000年頃に廃業したが、最近、背負子スタイルの羅宇屋で復活している。

大きくわけると、刻み煙草を詰める火皿(椀形の部分)に首のついた「雁首」(火皿の付け根から羅宇と接合する部分まで)、口にくわえる部分の「吸い口」、それらをつなぐ管の「羅宇」(らう;らおとも読む)にわけられる。(wiki)

hakari2.jpg

▼学徒勤労動員
学徒勤労動員(がくときんろうどういん)または学徒動員(がくとどういん)とは、第二次世界大戦末期の1943年(昭和18年)以降に深刻な労働力不足を補うために、中等学校以上の生徒や学生が軍需産業や食料生産に動員されたことである。(wiki)

銭湯(お風呂屋さん)

銭湯(せんとう)は、客が入浴できるようにした日本の公衆浴場の一種。風呂屋とも、湯屋(ゆや)とも呼ばれる。

銭湯外観

銭湯外観.png寺社建築のような外観の共同浴場を全国的に見ることができる。一般的に建物入口に「唐破風」もしくは「破風」が正面につく建築様式を「宮型」という。こうした宮型造りの銭湯は、昭和40年代ころまで関東近郊で盛んに建てられたが、各家庭に内風呂が普及し、またビルなどに建て替える銭湯も多くなり、減少してきている。

銭湯wikiLinkIcon

銭湯内観

銭湯.png銭湯と聞くと富士山の壁絵を思い浮かべる人は少なくはないと思われる。大正元年(1912)に東京神田にあった銭湯の主人が、画家に壁画を依頼したのが始まりで、これが評判となりこれに倣う銭湯が続出し、銭湯といえばペンキ絵という観念を生じるに至った。

銭湯wikiLinkIcon

番台

番台.png番台は、男湯と女湯を共に見渡す位置にあり、比較的新しい銭湯では脱衣所とは別のところにフロントのようになっていることが、多い。

銭湯wikiLinkIcon

北品川 天神湯

天神湯外観

スクリーンショット 2015-08-01 3.25.19.png北品川温泉 天神湯

LinkIcon北品川 天神湯

内観

スクリーンショット 2015-08-01 3.27.37.png地下100メートルから汲み上げた黒湯は、ゆっくりと時間をかけて地下水に溶け込んだ天然温泉です。 有機物に結びついたミネラル分が含まれているのが特長で、地表に出ても劣化することがありません。

LinkIcon品川浴場組合

▼旧東海道 元遊郭
1969(S44)年7月元遊郭北品川.png
1969(昭和44)年7月 北品川3丁目
(品川WEB写真館より)

品川宿
品川宿(しながわしゅく、しながわじゅく)は、東海道五十三次の宿場の一つ。東海道の第一宿であり、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿と並んで江戸四宿と呼ばれた。
慶長6年(1601年)に中世以来の港町、品川湊の近くに設置され、北宿、南宿、新宿にわかれていた。場所は、現在の東京都品川区内で、京急本線の北品川駅から青物横丁駅周辺にかけて広がっていた。目黒川を境に、それより北が北品川、南が南品川とされた。(wiki)

▼南品川1丁目
南品川.png
1958年(昭和33年)
旧東海道南品川1丁目辺り(品川橋から)
(品川WEB写真館より)