品川区高齢者福祉団体
品川たんけん隊のサイトです。

大井町 昭和から今

印刷用表示 |テキストサイズ 小 |中 |大 |

▲印刷  ▲文字サイズ
2017-05-10

第4回 品川たんけん隊の集い

平成22年5月29日(日)
午後2時00分〜4時30分
場所:大井第2地域センター 2階 第1講習室
杉山さんをお迎えして、お話していただきました。

杉山さん.jpg今回のゲストは、杉山さんです。
大正9年8月生まれ、現在も卓球をなさっておられて、たいへんお元気な89歳です。
ナビゲーターは、メンバーの伊東さんにお願いしました。

 現在89歳の杉山様にお話をうかがいました。大正9年8月生まれ、もうすぐ90歳になられるとは思えないお元気なご様子で、いろんなお話をしていただきました。
ご両親が50歳と70歳で亡くなられた事から考え合わせて、自分がこんなに長生きするなど考えられなかったそうです。
 大島が真正面にみえる伊豆高原の山の下でお生まれになりました。昭和10年小学校を卒業後、伊東の雑貨屋さん(今で言うところのスーパーマーケットのようなお店で、金物を商う所、瀬戸物を商う所、野菜を商う所の3つからできていたそうです)へ小僧さんに出、朝6時に起きて、夜1時まで働いたそうです。寝る前に風呂に入るのですが、先輩の背中を洗うのが先で、結局自分はきちんと洗うことも出来なかったそうです。給金(お給料)は、月5円でしたが辞めると言うといきなり2円50銭上げると言われたそうです。年長の丁稚が戦争で徴兵されて、なかなか辞めることも出来なかったそうです。
1円の価値は、銭湯が2銭、うどんが7銭、市電も7銭だそうです。そして熱海から品川まで1円51銭の乗車賃だったとのことです。
 昭和12年に静岡県の伊東から品川へ、そして大井町へ上京されました。

※ちなみに、品川駅に京浜急行が昭和10年に乗り入れました:伊東氏談

 当時品川駅は、国道側にしか改札がありませんでした。杉山様は駅前の喫茶店で初めて召し上がったホットケーキの美味しさに感激されたそうです。
大井町は駅前があまりに田舎で伊東より建物も貧弱で国道以外は未舗装、上京された日が雨天で、クシャクシャの道を歩いたそうです。障子がビリビリに破れている靴屋さんが駅前にあって、自分の田舎より田舎の印象が強い大井町にちょっと驚かれたそうです。
上京時の服装についての質問には、『汽車の車内でズボンを履き替えました。行李(こうり:昔の物入れで竹や柳の繊維で編んだ蓋つきのもの)につめてきた衣服と着替えました。当時はそんなことが出来ました。』と杉山様。すかさず『今は化粧をしますけど』の伊東さんの突っ込みで、みんな大笑いになりました。
 駅前には、立会小学校と伊達様の大きな屋敷があり、立会小学校の校庭が平らでなく、来福寺の前まで波が来ていて、そのあたりには、のりのヒビがありました。
埋め立てが始まり競馬場が出来る前は、軍の被服廠(ひふくしょう)があり補虜を使っていたそうです。その為、空襲で爆弾を落とされなかったとのこと。
来福寺の本堂も空襲にあい、ある日、飛行機の音だけが聞こえたので、防空壕に入り戸を閉めたとたんに、爆弾が投下されました。外を見たら立会川の駅の半分がきれいに45度の角度で切ったように見事に無くなっていたそうです。戦時下のお話は臨場感がありました。
それが8月13日でした。終戦の2日前のことです。
 結婚式は、昭和20年6月に荏原神社で挙げられました。披露宴でご馳走が出た時に空襲警報が鳴り、食事もそのままで避難し、一つまみも出来なかったそうです。杉山様はたいへん悔しかったそうです。記念写真も無いそうです。『結婚式が出来たんですね』と言う住友氏の言葉に、杉山様は『私は国民服で、家内はモンぺを履いていましたから・・』そして、寝ている時もゲートルをしたままで寝て、朝また、巻きなおしたそうです。
 空襲警報についても、『爆弾が落ちてから警報がなる感じでしたね』との事。昭和18年最初の空襲が有り、その時は警報もならずに、東芝の工場が爆撃をうけたそうです。
羽田の方から戦闘機が飛んできて立会通りに機銃を打ったそうです。人々は皆カーキ色の服を着ていたので兵隊と間違われ子供も打たれたそうです。
国民服はそのままゲートルを巻くと直ぐに兵隊の格好になれるとの事。皆が国民服を着ていたそうです。服といえばそれしかないそうです。それしか配給されなかったそうです。
その国民服は木の繊維に糊づけしたようなもので洗うとペラペラになるような物だったそうです。
終戦後の食料などはザラメが支給されたり、何年間かはひどかったとのお話でした。
 仕入れた手持ちの給体(支給品)だけでは、代金も入らないので従兄と一緒に秋葉原に加工品を持ち込んだり、余った材料で鍋を作り、取手(とりで)の先のお百姓さんへの土産にしたら、とても喜ばれ、鍋一つが、米1升にかわったそうです。
買出しの取り締まりについての情報と荷物の処理を工夫して持ち帰ったそうです。
 大井競馬場が出来たのが昭和25年で、杉山さんが30歳でした。子供さんも4人になり、職人さんを連れて、従兄から独立。パチンコ台、次はスマートボール台を作り、金属部品加工などで生計をたて、いろいろと大変な思いをされたそうです。
そして、『健康法は特別なことをなさっていますか?』と言う伊東氏からの質問には『特に何も意識してなくて、いつの間にか、この年になった』とのことでした。
酒は飲まず、運動は1時間半~2時間ほど歩く程度とのこと。奥様が亡くなられて、3年ほどは壁を眺めていらしたそうですが、これではいけないと思い直し2時間ほど歩くようになってから足が丈夫になられたそうです。
 食事については殆んど自炊だそうです。納豆がお好きだそうで、それも30グラム入りに卵をかける位が丁度よいとのです。それと欠かさず味噌汁それも具の多い物、豚汁に近い物それと、夜は豆腐と野菜の胡麻和えなどだそうです。キムチも好き、お新香もかかさないそうです。
 町会の役員をなさっていた時は、いろいろな物の依頼が多くて、お仕事を脇において町会の必要な物を先に作るようなこともあったようです。『お稲荷さんのお賽銭箱の鍵の工夫は、ほとんど作ったねー』とおっしゃっていました。住友氏が『最後は何を作られていましたか?』と質問。杉山様は『いろいろやりましたが、メーカーの下請けの金属加工の試作品を作りましたねー』
それも、平成2年頃にはメーカーが中国に移り、仕事がピタリと無くなったそうです。職人さんの就職先も決まり、現在は大家さんが新しく建てたマンションの管理人さんをなさっていらっしゃいます。
代表から高齢者の一人暮らしについて質問がありましたが、杉山様曰く、『なる様にしかならない・・』と言われました。やるべきことをやった上で、くよくよと思い悩まないことこそが長生きの秘訣かと感じました。また、ものづくりで、常に工夫し新しい部品を作ることが、いわゆる脳トレーニングにつながり若々しくいられるのではないかと感じました。

実直なお人柄があらわれたお話の会で、和やかなうちに時間となり皆さんの拍手で終わりとなりました。ありがとうございました。





***** 豆知識 *****




▼立会小学校

昭和27年の立会小学校の全景の画像が見られます。
LinkIconしながわWEB写真館へ

▼竹ひび または 海苔ひび

平安時代から東京湾に自生していた海苔は江戸時代に東京の大森村・品川村の遠浅の海で、竹ひびを立てて作られていました。
LinkIcon大森 海苔のふるさと館

▼仙台坂

LinkIcon詳しくはこちら

▼被服廠
LinkIcon詳しくはこちら