品川区高齢者福祉団体
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大井町 昭和から今

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2017-05-10

第12回 品川たんけん隊の集い

平成24年3月17日(土)
午後2時00分〜4時00分
場所:大井第2地域センター 2階 第1講習室

ozaki2.jpg今回のゲストは、尾崎さんです。
昭和13年生まれ。現在、伊藤中学同窓会長をなさっています。
囲碁愛好家でもあり、小学校のスマイルスクールで子供達に囲碁を教えていらっしゃいます。
原町のこと、大井町の変遷についてお話をうかがいます。

ozaki3.jpg尾崎さん
生まれてすぐに大井町に来て現在に至っております。私は原町に住んでおりましたので、卒業したのは原小学校です。伊藤中学を卒業。現在は、伊藤中学の同窓会会長をさせていただいてます。昨日は品川区のいろんな所で卒業式がありましたが、伊藤中学の校門を通る時に、あぁここで3年間学んだんだなぁ・・といろんなことを思い浮かべながら卒業式を見てまいりました。
戦前にもちょっとかかりますが、小学校の時代の話と成人するまでのことをお話させていただきたいなと思います。
この品川たんけん隊に関わるようになったのは、長久保さんと囲碁の会でお会いしまして、そのご縁で参加させていただくことになりました。
どうぞよろしくお願いいたします。
私が小学校に上がったのは昭和19年。男の子は帽子をかぶっています。帽子には国民学校の徽章がついていたんですが、戦争が終わったとたんに小学校の徽章に変わったんです。ちょっと意味が分からない方もいらっしゃるかもしれませんが、国民学校は国民と書いてあって四角いものでしたが、小学校になると桜の徽章に変わったんですね。そういう時代の流れの中で、大井町に住んでいました。当時はもう戦時下に入っておりました。小学校一年生の時、朝、教室に行きますと教壇の横に四角い箱があってコッペパンが積んであるんです。授業をしている最中に「ウゥ〜」と空襲警報が鳴るわけです。警報がなると生徒はそのコッペパンを持って校庭に集まるわけです。
そして、その地区、その地区の上級生が引率して家に帰るんです。そうなるともう授業は無しです。そんなことばっかりやってたんで勉強した記憶が全然ありません。僕らが入学した時には、3クラスありましたが、1クラス20名いたかどうかっていう感じでしたね。朝礼の時に朱塗りのお盆に袱紗をかけたのを持ってきて、教育勅語がありました。それから戦争になりました。
戦時中には、防火訓練というかバケツリレーというのがありました。今ではポンプでやりますが、以前は家の前にバケツが10個くらい置いてあって、大人が並んで水の入ったバケツをリレーして消火活動の訓練をしたわけです。
その当時の人達は大変な思いをしたんだと思います。また、当時の防空壕ってご存知でしょうか?家では畳を2畳ほどはがし、その床下に1m位、穴を掘って空襲になるとそこに潜って板でふたをするんですが、爆風ならよけられるけど、焼夷弾だったらどうしようもないわけです。今、考えるとそんな状態だったので防空壕は用に足りなかったんじゃないかと思います。
空襲は経験されてる方もいらっしゃると思うんですけど、空爆というのを。
私が6歳か7歳くらいの時に、ちょうど原町に住んでましたけども、日本光学が被災しました。夜の7時頃でした。光学の所が、ずーっと真っ赤でした。
もう夕焼けとかじゃなく赤い絵の具をばーっと塗ったような感じ。それから大森の方で、焼夷弾がすーっと斜めに落とされてくるのを見ました。そうすると真っ赤に空が焼けて、あぁ空襲なんだなぁと思いました。空爆があったのが昭和17年だったとどなたかがおっしゃってましたが、昭和19年あたりから本土に空爆がどんどんあったということなんですが、その時、ちょうどうちの屋根に飛行機の破片が落っこちてきたり、前の家には不発弾がおっこったりしました。で、ニコンが燃えたんでうちは原町なんですけど、日本光学は森前って言うんですかね、森前地域は強制疎開になったんですね。家を空き家にしておいて柱を鋸で切っておいて屋根をのせたまま荒縄をかけて、みんなで協力してよいしょ、よいしょと引っ張るんです。そうすると家が倒れて。そう言う風にしてどのくらいの広さかわかりませんが、今の日本光学の所から原町の方まで全部壊しちゃったんですね。もったいない話ですよね。そこは全部、畑の状態にされてました。戦後すぐに祖父がなすやトマト、カボチャなどを作ってました。
「この中で学童疎開された方、いらっしゃいますか?」私は、祖母の実家が能登にありましたので、縁故疎開をしました。その時、能登湾に真鶴でやられた軍艦がどんどん入ってきたんです。すごくのどかな海で景色もよくて魚はうまいし、こんないいとこないと子供心にも思ってたんですが、軍艦が入ってきたおかげで空爆が始まっちゃったんですよね。能登は小さな列島ですから爆弾が落ちてくるとどうしようもないと身の危険を感じて祖母と私は、七尾まで行った記憶があります。その頃、陸上を通れなかったんで15〜16人くらいでポンポン蒸気の小さな釣船のようなものに乗って行きました。その時はもう爆弾が落ちた後なので「海の中には機雷があるよ!」とか大人はそんな話をするわけです。「いつ沈没するかわからないよ!」と脅かされながら2時間ぐらい乗ったでしょうか。七尾に行った時には、夜の7時頃でした。被災された方がたくさんいました。お店なんかやってませんから、何もなくて祖母が持っていたお米を近所で炊いてもらっておにぎりを作ってもらって、それを食べて、新潟の親戚へ行きました。新潟へ行ったら長岡が空襲でどうしようもない状態でした。海の側にいたんですが、「ここにいても死ぬのは同じだね」と昭和20年8月10日に実家のある東京に戻ったんです。その時、まだ新潟にいて、終戦になってたら帰れなかったと思いますね。
それでまた、原小学校へ入って小学校生活が始りました。
終戦になって10歳くらいになるといろんな所へ遊びに行ったりしました。今、西大井から横浜へ行ってる列車、昔は品鶴線と言いました。そこの土手の所に線路が走ってまして、その上に五寸釘を置いて列車が通るのを待ってるんですね。列車が通った後、釘がぺちゃんこになってるんです。それをコンクリートややすりで研いで、ちょっと刀っぽくして草を切ったりして、青龍刀ができた!と、そんな遊びを小学校5、6年までやってたですかね。
当時、天皇陛下のお召し列車が通ったという記憶がありますね。
また、敗戦直後ですから工場がなくなったりつぶれちゃったりして、ベアリングだけがあっちこっちに落ちてる場所があったんです。それに軸を通したのを板の前と後ろに取り付けて、頭の部分に杭を取り付けるんですね。それを原小学校の近くの金子山、今で言うと西大井4〜5丁目あたりですかね、原小学校を過ぎてちょっと行くと出石交番(現・西大井地域安全センター)の先から山王の方へ降りて行く比較的なだらかな幅の広い坂があるんですね。それに5、6人で乗って、そりのようにしてだーっと滑るんですね。それが、ものすごく快適なんですね。危なくなると足でブレーキをかけて止めたりなんかして。たいした怪我もせず遊びました。他の遊びとしてはベーゴマとか竹でつくった紙でっぽう、山吹の実で、スポーンと打つような、そんなのを作ったんですが、自分のうちには竹がないのでお屋敷の竹を拝借したりして作りました。あとは紙芝居がありました。当時の紙芝居は、2、3人の方が来てました。拍子木を鳴らして、子供を集めて飴を売ったりして見せてくれたんですけど、中には面白いリズムで太鼓をたたいて来るおじさんもいました。紙芝居の内容は、活劇ものの黄金バットなんかが面白かったです。紙芝居を見るには飴を買ったりしなければならなかったわけですが、みんな裕福ではなかったんですね。昭和25年頃、朝鮮戦争が始まった頃、金偏景気というのが出てきて、屑鉄を買ってもらえるようになってきたんですね。私たちも5、6人で鉄屑を拾ったりしてました。一番、お金になったのは銅線でした。川だとか焼け跡に行くと電線だとかそういうものが落ちてましたんで集めて、屑屋に持って行く。ガラスまで売れましたからね。ガラスの破片まで引き取ってくれました。それを集めておいて、駄菓子屋に行く。当時の駄菓子屋は、子供たちにとって非常に夢のある所でしたから、ドキドキしながら買い物をしました。駄菓子屋で一番好きだったのが、くじでした。新聞紙で包んであって何が入ってるかわからないのとか、穴をあけると中からガムがでてくるとか、そういうものが多かったです。そのうちに少年雑誌のバッジが欲しくなったり。少年雑誌には付録がついてましたし、お菓子キャラメルなんかにも付録がついてました。キャラメルの名前がなかなかわからなくてインターネットで調べてやっとわかったんですが、紅梅キャラメル。そのキャラメルの中にカードが入ってて1点とか2点とかついてて、それを何点集めればよかったのか、わかりませんが、集めて集計所みたいな所へ持って行くとスポーツ用品に交換してくれました。その頃は、川上とか青田、青バット、赤バットの時代ですから。私はバットとグローブをもらったのをおぼえています。バットも少年バットですし、グローブも今あるようななめし皮のものではなく豚皮のバックスキンでした。それでも球を受けるには十分でした。
原っぱがたくさんありましたから、それで三角ベースっていうんですか、狭い場所でもできる野球をさんざんやってました。
あと面白かったのは、ニコンが倉庫代わりに森下の所に防空壕がいくつもあったんです。その防空壕は簡単な羽目板でふさいであるだけでした。
入り口は、大人が一人入れるくらいの大きさで、中は広い部屋になってるんですけど。そこにレンズがいっぱい隠されてたんです。で、子供たちはそれをちょっと拝借してきてプリズムなども完全な製品ですから、それとレンズも大小あって凸レンズも凹レンズもありますから、それでもって望遠鏡を作って、そんなこともやらしてもらいました。すごく楽しかったですね。
そうやってなんでも手作りって言うのが私たちの時代でした。
今の子供たちは、実際に自分たちの手で経験せずに疑似化したものだけで本物だろうと思っているわけです。私たちが子供の頃は、自分で手作りして実感を伴って遊んでたわけですよね。その部分で今の子供たちは不幸だな・・と思ったりするわけです。
実は今、小学校のスマイルスクールと言うところで囲碁を教えているんです。囲碁だけでなくいろんな遊びをやってるんですが、学校の教室の中でこっそりやってる感じなんですね。もう少しのびのびとやれるような方法を考えてあげられるといいんじゃないかと思ったりします。
話はかわりますが、当時の娯楽としたら、映画を見るとか泳ぎに行くとか釣りに行くとかそのようなものでした。
昔の大井町には、戦中に学校が燃えてしまってプールだけが残った所がありました。記憶をたどってみると伊藤小学校にプールがあって、山中小学校にもプールがあって、そういう所でプールだけを開放してたんですよね。夏になると先輩と一緒に海水パンツと手ぬぐいを持って10円だか15円だかでプールに入って泳いでました。今もプール開放はやってますが、とにかく遊びを探しながらやっていました。
釣りなんかにも行きました。釣りは今の立ち会いの勝島のあたり。釣り道具屋が一軒ありまして、そこで針だけを買って今の競馬場の手前まで行くと浅瀬になってて、そこでゴカイをとって魚を釣るわけです。
あとは、「海水浴が大森海岸でできたんでしたかね?どのへんでした?勝島の向こうの方ですか?」
参加者 鈴が森の刑場のちょっと先の左側あたりですね。今のしながわ水族館のあたりですね、水族館の手前ですね。
中学生の頃でしょうかね、鹿島神社や三つ叉の縁日に行ってました。私はバナナのたたき売りが一番楽しかったんですが、100円くらいしかないお小遣いを持っていって、バナナのたたき売りを聞いてて、買ってきては食べたのをおぼえています。その後、乾燥バナナがでてきましたけど。
そのちょっと前の終戦直後に大井町の駅前から今のヨーカドーさんの所ですね、あそこに闇市があって。焼き鳥とかお汁粉のような甘いものが売られていました。賭事なんですが、でんすけっていう手品ですね。それでもってお客さんを集めて、子供ですからようく見ててもわかんないんですよ。ご婦人が時計を外して賭けたり・・でもすぐとられちゃうんです。すごいなぁ〜と思った記憶があります。
それと、母親と溝の口まで大根を買いに行って、大井町の駅前で今のバス停のあたりで売った記憶があります。そんなこともあったんだなぁと思い出しました。
昭和28年に中学を卒業したんですが、その頃はかなりの就職難だったんです。歌にもなりましたが、地方から上野駅に金の卵が集団就職してくる時代だったんです。私は中学を卒業してすぐに日本光学へ入ったんですが、養成所がありました。今はそのシステムがなくなりましたが、三菱にも東芝にもありました。入社したんですが、入学するようなものなんですね。午前中は学科(数学、物理、科学、英語)を約4時間、勉強をしてました。午後からはその会社にあった実技をやるわけです。ニコンでは組立の方に入りました。
当時のニコンは三菱系だったので軍需産業に近い物がかなり作られてたんです。本来ニコンはメガネ工場から始まったんですが、自衛隊ができた頃で、潜望鏡や、大砲で攻撃をする時に覗いてみて敵との距離を測る為の測距儀を作っていました。
潜望鏡なんかは実際に作りました。潜望鏡の長さっていうのは、それほど長くないんですね。長さ的には、8メートルくらいです。潜水艦につけるもので、手で持つハンドルがあって、回して見て、見終わるとカチャンとハンドルを上に畳んでしまう。そのような機械的な組み立てなどをしてました。
ニコンの会社のビルがあるんですけど、ビルの端っこに潜望鏡を立てるんですね。で、ある場所に目印になるものが設置されてたと思うんですが、それを見て調整するのもやりました。
その当時の中学生というのは学習に飢えてたっていうのか勉強したくても、高校に行きたくても学費を払えないから就職するんだっていう子がほとんどだったんですね。私たちは養成所での3年間には、ほとんどの子が夜学に通ってました。普通科に通う子もいれば、工業高校に通う子もいて私は工業高校へ行ったんですけども。その3年間が終わると会社を辞めて大学へ行くという子がかなりいましたね。みんな学費稼ぎに会社に勤めてたんですよね。勉強させてもらって学力付けて・・養成所っていうのは、普通の高校とちがって単位が足りないんですね。ですから普通高校へ行かないと大学を受験できないんですね。みんなそうして苦学してましたね。中には学校の校長先生になったのも教育者になったのもたくさんいますし、なかには計理士になったのもいます。
当時は、そんな風に苦学をして就職をして行ったっていう感じでした。
そうこうしながら自分の給料ももらえるようになるし、自由になるお金も増えて若いから夜な夜な遊びに行きたくなる感じで、大井町にはキャバレーがありまして、当時は杯一ってところに通いました。バロンとかもあったんですね。今は、飲み屋さんの方が多いですが、当時はそんな高額を払わなくても飲めたんですね。5時半くらいから1500円くらい持ってセットでビール飲んで帰っるって感じで行ったおぼえがありますね。
キャバレーってなんで面白いのかなぁって思いますけどね(笑)

尾崎さんのお話はここでおしまいです。
少年時代が目に浮かぶような当時のお話でした。楽しいお話しを有り難うございました。



*** 豆知識 ***


▼防火訓練(バケツリレー)
old0011.JPG

▼ポンポン船
ポンポン.jpg
もともとは、グローエンジン(焼玉エンジン)を用いた実用の船の通称(エンジン音の擬音に由来)でしたが、その作動音に似ていることから転じて、現在では模型の船のことも指すようになりました。

LinkIconポンポン船

▼ベアリング
240px-Ball_bearing.jpg

LinkIconベアリング

紅梅キャラメル

紅梅キャラメル

キャラメル.jpg戦後すぐの1947年、東京の世田谷区松原に紅梅食品という会社が設立された。49年の11月にキャラメルなどの菓子類の統制が撤廃される。菓子業界はこれを境に自由競争の世界に突入した。そんな中で紅梅食品は紅梅キャラメルの販売を開始する。

さようなら紅梅キャラメル

さようなら紅梅キャラメル.jpg昭和20年代後半、東京の男の子に圧倒的に人気があった「紅梅キャラメル」。箱の中には巨人軍選手の顔写真のカードが入っていた。1チームぶんカードを集めると景品がもらえた。6年で消えたもう一つの巨人。

LinkIconさよなら紅梅キャラメル

▼デンスケ
「デンスケ賭博」ともいう。不法行為の一種であり街頭で将棋等賭け事を催すが、絶対 相手が負けるように仕組んである見物人も含めた組織犯罪。 栃木県警の刑事であった 増田伝助が最初にこの手口を見破り検挙した事から「デンスケ賭博」と呼ばれるように なった。

測距儀

測距儀.jpg測距儀は大型の光学的な距離計のことで2本の望遠鏡の画像をプリズムによって合成し、三角祖苦慮うをするものが一般的。対物レンズの後にある鏡(またはプリズム)のわずかな傾斜角度で距離を測定する。

LinkIcon測距儀

潜望鏡

潜望鏡2.jpgせんぼうきょう)とは反射鏡などを利用して視点の位置を変える光学装置のことである。ペリスコープ (Periscope)。プリズムやレンズを用いて望遠鏡の機能ももたせたものが一般的である。

LinkIcon潜望鏡