品川区社会教育関係団体
品川区高齢者福祉団体『品川たんけん隊』のサイトです。

大井町 昭和から今

印刷用表示 |テキストサイズ 小 |中 |大 |

▲印刷  ▲文字サイズ
2017-01-19

第25回 品川たんけん隊の集いが開催されました。

日時:平成27年5月15日(金)
   午後2時00分〜4時00分
場所:大井第2地域センター 2階 講習室

25集1.jpg


司会:本日のゲストは、大澤さんです。
今日は、西大井今昔物語と題して、お話しいただきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

osawa1_Fotor.jpg大澤
品川区大井森前町、現在の西大井1丁目に生まれました。学童の集団疎開や父の転勤、その他で離れた10年をのぞいて、ずっと70年間、住んでおります。

それでは、お配りしました資料にありますようにお話したいと思います。

昭和39年の住居表示実施前後の町名比較
現在

 西大井一丁目  大井森前町
 西大井二丁目   大井原町  
 西大井三丁目  大井出石町
西大井四丁目 大井金子町 
西大井五丁目  大井伊藤町の南半分
西大井六丁目 大井伊藤町の北半分 および 二葉町六丁目の一部

          

道標.JPG まず、念仏供養道標・・120cmくらいの高さの角柱になっています。正面には南無阿弥陀仏、側面にこれより池上本門寺、反対側面にはこれより奥沢九品仏と道路の行き先が刻まれてあります。それで裏の方には元禄八年十月二十五日という日付が読みとれます。西暦で1695年、ですからこの道標は、今から320年前にたてられたということです。池上道を示す道標が、品川区には、これを含めて5基、残っております。その中でも、これが一番古いものだそうです。ほかにも目黒区、世田谷区、それから大田区にはあわせて22基の道標が、ありまして当時、400年の歴史をもっていた池上本門寺をめざして、いかに多くの人が集まってきていたのかが、よくわかると思います。

ニコン.JPG それから次が、ニコンですね。ニコンの大井製作所。ニコンは、1917年(大正6年)に、日本光学工業株式会社という名前で設立されました。それまでにあった東京計器製作所の光学計器部門、岩城硝子製作所の反射鏡部門を統合して有名な三菱系の岩崎財閥の出資によりできあがった会社でございます。その翌年、1918年(大正7年)には、現在の日本光学のあの場所に大井第一工場が完成しております。子供の頃から、自宅の2階の窓から日本光学のがっしりとした建物を見ながら育ちました。今と同じ階数でした。この日本光学も時代が下って、昭和20年の戦争末期になると強制疎開が始まったんですね。日本光学とか裏に三菱銀行寮とかまわりにありましたけど、そういう軍需工場、それから品鶴線(今の横須賀線)の線路の100m以内の場所は全部、立ち退いて取り壊されることになったわけです。それで戦火の激しい中でも、まぁ、ここに住んでました私の祖父母は、この強制疎開に従って引っ越して行きました。しかし、そちらの方で空襲にあって焼け出されました。そんなことがございました。

三菱重工跡地(現西大井広場公園).png それから、今はありませんけど、三菱重工の大井工場が、1920年(大正9年)につくられまして、昭和に入ってから戦車をつくってたんですね。兵器の生産工場になっておりました。で、1974年(昭和49年)に閉鎖されまして、その後、現在の西大井公園とコアスターレのマンションビルになっております。

◀︎三菱重工跡地(現西大井広場公園)しながわWEB写真館より

小野学園1.jpg そして、小野学園ですね。この学校も、たいへん歴史のある学校でして、1932年(昭和7年)に京南家政女学校という名前で大井倉田町に開校いたしました。太平洋戦争が終わってから、1947年(昭和22年)に今の場所に大井中学校、大井女子高等学校が設立されました。引き続き、その翌々年には幼稚園が開園されました。小野学園という名前は、1957年(昭和32年)に法人名が小野学園ということになりました。この学校は、スポーツが盛んで、とくに60年の伝統がある女子ホッケー、校技として強豪で知られております。その後、校舎も改築され、校庭も全面天然芝に整備され、制服もしゃれたものにかわりました。私が若い頃は、横須賀線も無いので、大井町まで徒歩で光学通りを行きますと大勢の女学生が校庭でホッケーの練習をしているのをちらちらと見ながら通学したのが、懐かしく思い出されます。

朋優学院.png それで、朋優学院高等学校ですね、ここはもともと中延学園と呼んでた学校です。西大井の中で一番西に位置しておりまして、第二京浜国道のところにあるんですね。1946年(昭和21年)に中延学園高等女学校として発足しましたが、2001年(平成13年)に朋優学院高等学校と名前が変わりました。今は、男女共学となっております。

伊藤学園.JPG伊藤学園 この伊藤学園ですけど、学制改革というのが昭和22年にありまして、新制中学というのが初めてできたんですね。それで品川区立伊藤中学校というのが始まりました。
校舎は原小学校の校舎を使って二部授業をやっているというスタートでした。
2007年に品川区立原小学校と品川区立伊藤中学校を合併し小中一貫校として開校。校舎は伊藤中学校の校地に全面新築されました。

原小.png それから西大井二丁目に戻ってきまして、品川区立原小学校は私の卒業しました母校になります。大井第一小学校にもいたんですが、疎開で帰ってからは原小学校に2年間あまり通って卒業いたしました。家から徒歩で3分くらいで一番楽な通学をしておりました。それでこの学校は2007年(平成19年)に伊藤中学校と合併して小中一貫校として伊藤学園となりました。

  しながわWEB写真館より 原小学校 1978年(昭和53年)7月▲

冨士見台中学.png冨士見台中学校 そして次が伊藤小学校冨士見台中学校ですね。これ二つの学校は同じ西大井五丁目に近接して立地しております。この小学校と中学校は一貫教育ですけど、施設分離型の小中一貫教育をすすめております。中学校が旧伊藤町にありながらなぜ伊藤のつく校名になっていないのかご説明しますと、1950年代に伊藤町のあたりが急激に人口が増加してきて中学校設置の必要性が生じたわけです。新しい中学は1954年度に新設開校されました。学校名については伊藤中学という名前はすでに使われており伊藤の名称をつかうことができませんでした。建設予定地がちょっと高台にありまして、富士山がよく見えたので、冨士見台中学と学校名がつけられたそうです。冨の字の上に点がない文字なんですね。上から押さえられない方がいいというような理由で決まったそうでございます。
 伊藤小学校のほうは1936年(昭和11年)に東京市伊藤尋常小学校として開校されております。校名は伊藤博文公に由来しております。学区域に屋敷があり地名も伊藤町でした。こちらは問題なく命名できたわけです。

東芝会館.jpg 次は東芝会館について、ご存知でしょうか?
東芝会館というのは、ずっと馬込銀座のほうに下っていく坂道のところに、出石の奥のところですね。ここは昭和16年に日本コロンビアの社長だった三保幹太郎氏が自分の邸宅として建築したものでございました。1953年(昭和28年)になって東芝に譲渡されました。

水神池.png それから次が、大井原の水神池。西大井行きのバスを西大井二丁目で降りて、次の信号を左折して、しばらく歩いて最初の十字路を左折すると、ちょっとひっこんだところに水神池があります。昔、水神池というのは原や出石の農家が出荷する野菜を洗っていた場所だということです。傍らの水神という神社は水の恵みに感謝した農民がまつったといわれております。この水神は目の神様といわれていて池の水を持ち帰って目が治った方が池に鯉を放ったといわれております。池に大きな鯉が泳いでおります。

養玉院.png では、その次にまいりますが、養玉院如来寺というのがあります。大佛(おおぼとけ)と皆さん呼んでおられます。私の家は、除夜の鐘がおおぼとけのほうから聞こえてまいります。おおぼとけという呼称が耳になじんでおりまして、大晦日に初詣に行ったこともございます。他所から移転したお寺でして、もともとは二つの別のお寺だったんですね。養玉院と如来寺という二つのお寺が合併して一つのお寺になりました。養玉院というのは由緒のあるお寺で平安時代にできた三藐院(さんみゃくいん)というお寺がありましたけど、上野の寛永寺の参内に土地を与えられまして、三明院という名前を変えてそちらに移りました。その後、1663年に現在の養玉院という名前に改称しました。で、1922年(大正11年)に大井の現在地に移転してきたということです。
で、如来寺のほうは、1636年に芝の高輪に開かれまして。開祖の木喰但唱(もくじきたんしょう)という方が心血を注いで彫り上げた五智如来像というのが安置されているとのことです。俗に高輪の大仏としてよく知られていたようです。1908年(明治41年)に、現在地に移転してきました。というわけで隣接地に移転していた1926年(大正15年)に合併しました。五智如来像という大日如来、釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来、宝生如来の5人の如来の像が敷地の中にございます。このお寺には、お釈迦様とか阿弥陀様とか地蔵菩薩などの仏像がたくさんあります。そのうち12基が品川区の指定文化財となっております。また、絵画では阿弥陀三尊来迎図もありますが、それも品川区の文化財に指定されております。

伊藤墓所.JPG伊藤公墓所。伊藤博文公のお墓のあるところです。滝王子通りを西大井方面にまっすぐ行きますと大井原町停留所のところの横須賀線踏切をさらに渡った少し先の右側にございます。明治18年に日本で初めての総理大臣に任命され、明治の元勲とよばれた人物でございます。

旧品鶴線.jpg あとは、交通機関についてお話いたします。品鶴線はお聞きになったことございますか?横須賀線とか湘南新宿ラインの旅客営業が行われる前、その線路は品川と鶴見から名前をとって品鶴線と呼ばれていました。1921年(大正10年)頃ですね、貨物専用車両、軍用列車専用として計画されました。土地の買収が始まりましたが、お国の為ということで二束三文で土地を提供したというように伝わっております。それで品川と鶴見間の距離は18kmくらいなんですね。1980年(昭和55年)に横須賀線の旅客営業が開始されるまで品鶴線(ひんかくせん)と呼ばれていました。子供の頃など友達と線路に入り込んだりしておりましたが、それほど列車の数は多くなくて何本もなかったように記憶しております。現在は、横須賀線と貨物列車のほかに湘南新宿ライン、成田エクスプレスとか団体臨時列車だとか大井工場で修理を終えた車両を回送したり、あるいは試運転の車両などで、かなり忙しい車線になっております。それから西大井の駅ですけど、品鶴線が旅客化に取り残されたんですね。国鉄では新川崎、品川間に西大井駅を設置する計画をすすめておりましたが、国鉄が末期の頃ですから財政的に非常に苦しかったということで、1975年(昭和50年)に国鉄が地元負担の駅を作ったらどうか?という提案をしてきたそうです。これに対して駅建設費への品川区公金投入を違法とする住民訴訟が起こりました。旅客化の開始予定が昭和55年だったんですけど、その2月に品川区の区議会が10月開業反対を決議したとか、6月になったら住民訴訟に対して裁判所のほうで原告が勝訴する判決が下ったということです。従って10月1日に横須賀線は通ったんですけど、西大井駅はできなかった・・ということです。それで、昭和59年ですから、4年も経ってから第3セクターによる駅の建設が開始されて61年の4月2日、やっと西大井駅が開業したということでございます。

乗合自動車.jpg それから先ほど、ちょっと画面にありましたが、城南乗合自動車というのが昔、走ってました。子供の頃の記憶なんですけど、自分の家の側を走ってたバスは車体が黄色い城南乗合自動車でした。正式名称が、城南乗合自動車1926年(大正15年)に東京府大井町で創業という記録があります。先ほどでましたおおぼとけ(養玉院如来寺)への参拝客の足を確保する為に大正15年から倉田とおおぼとけの間で走っていたという話でございます。別ルートが原町を通っていたということです。

・・・というわけで西大井はあまり目立つものがたくさんないんですけど、以上が西大井にあるいろいろなものでございます。皆さんも是非、足をのばしてご覧いただければと思います。

大沢さま、有難うございました。大井町から西大井にかけてのお話、季節の良い時期の散策に、ぴったりのお話だったのではないでしょうか?
また、たくさんの皆様にご参加いただき、有難うございました。



*** 豆知識 ***


agend.jpg

▼大正12年7月1日設立の原小学校は、ウェルカムセンター原として交流施設になっています。
センター原.jpg
 ウェルカムセンター原・交流施設は、伊藤学園の開校に伴い移転した原小学校の施設(西側校舎・屋内運動場・グラウンド)を利用し、 地域の皆さんの活動・交流拠点としての利用や少年少女のスポーツ活動など、 社会教育活動の場として、平成20年9月28日に開設。

▼コアスターレと広場のグランド
コアスターレと広場.png

▼伊藤小学校
伊藤小.JPG

西大井マップ.png

▼瑞應殿
瑞應殿.png
五智如来堂の瑞應殿(ずいおうでん)には五智如来像が安置されている。

▼五智如来
五智.png
五智如来像(大日如来、薬師如来、宝生如来、阿弥陀如来、釈迦如来)が安置されている。五智如来とは密教の主尊である大日如来の有する5種の智恵を象徴したものである。5体とも像高約3メートルで、「大井の大佛(おおいのおおぼとけ)」として親しまれている。

学制改革
 戦前よりの懸案を解決しつつ戦後の新社会に適した学制に改編することを目的として、南原繁・東京帝国大学総長らにより推進された教育制度の改革であった。主な内容は複線型教育から単線型教育の6・3・3・4制の学校体系への変更。義務教育の9年への延長である。