品川区高齢者福祉団体
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大井町 昭和から今

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2017-05-10

第2回 品川たんけん隊の集い

平成21年12月19日(土)
午後1時30分〜4時30分
場所:ウェルカムセンター原 2階 第1講習室

宮原さんを迎えて、お話をうかがいました。

SANY0005.JPG今回のゲストは、宮原さんです。宮原さんは、昭和10年に大井の倉田で生まれ、現在もお住まいになってらっしゃいます。
昨年、大きな病気をなさったそうですが、すっかりお元気になられて最近は、ワインなど楽しんでおられるようです。
今回の集いでは、品川たんけん隊メンバーの簡単な自己紹介に続き、和やかなムードでお話を始めていただきました。
お話のナビゲーターは、メンバーの住友さんにお願いしました。

◆Vol.1◆

SANY0003.JPG住友さん
いろいろお話をうかがわせていただきたいのですが、時代を区切ってお願いしたいと思います。
戦前から戦中にかけて、どちらに疎開されていて、その時の大井町はどうだったのか?焼け野原だったのか?その辺はどうだったんでしょうか?
SANY0005.JPG宮原さん
古い所は、残ってるとこがずいぶんあるんですよ。
たとえば、倉田町で言いますと西光寺さんとかあの辺は、ずーっと助かってるんですよ。
あの、三ツ又の辺は、ぜーんぶ焼け野原になりましたけどね。

(以下、敬称は略させていただきます)

住友
大井町にはLinkIcon三菱重工の(現在の西大井広場公園の位置に)大井製作所があったんですが・・・。
宮原
そうです、ありました。
戦争中、日本光学(ニコン)では、潜水艦の潜望鏡を作っておりました。ええ。それで三菱重工では、あのー、戦車を作ってまして、えぇ、だから完全な軍需工場なんですね。
ですから、秘密なことがずいぶんありました。
住友
それでは、軍需工場ということで爆撃もされたんでしょうか?
宮原
焼けましたですね。はい。一番最初にですね、大井地区に爆弾がおっこったのは、今の東芝病院の所に昔の※マツダランプって言ってマツダ電気の大井工場があったんですが、そこが最初です。
ちょうどその時、家におりましたが、ガラスが飛んでものすごい衝撃で腰を抜かしました。すごかったですよ。
住友
それは、最初に日本が爆撃されたものですか?
宮原
いぇいぇ、そうじゃないです、もうだいぶ爆撃されてからですね。
戦闘機のグラマンなんて言う飛行機でしたね。
住友
宮原さんは、その頃、どちらかに疎開されたんですか?
宮原
えぇ、小学校の4年で、田舎がないものですから、学校の集団疎開で。
品川区の子供達は、山中小学校も原小学校もそうですけど、南多摩の方へ行ったんです。LinkIcon登戸方面ですね。えぇ。だいたい品川辺りの学校だと隣同士のお寺にいました。大崎の芳水小学校の子供達も、私達の隣のお寺だとか、ほとんど南多摩でしたね。
住友
それは、昭和の何年くらいですか?
宮原
昭和20年。はい。20年の終戦のちょっと前ですね。それでも、子供心にね、なにしろ家に帰りたくてしょうがないので、晩御飯の時にそぉーっと何人か集めて、登戸から、あの、歩いて帰ってくるんです。大井町まで。
子供のことで、道順だとかわかりませんから、何しろ線路を歩けば着くと思って、登戸から川崎へ出て、川崎から玉川渡って、電車が来ると枕木へぶら下がったりして。そんなような覚えがあります。
まだ小学校の3、4年でしょ?そんな年でも家に手ぶらで帰れないってんで、あの、登戸ですから小さい梨をポケットいっぱい入れて、それで何とか親だとか兄弟にね、食べさせたいと思ってねぇ・・・。
これ、ちょっと弱い話になりますけど・・・。えぇ。
そうして、よ~うやく朝になって、家に着くと、先に先生が来てるんです、迎えに(笑)
そうすると全校生徒の前で、バーンと。体罰なんてね言ってられませんよ、自分達がいけなかったわけですから。殴られたことも内緒ですよ。そんな思い出もあります。
私達のお寺は、登戸の一つ手前の稲城長沼って駅で降りてね、忘れもしない宝蔵院ってお寺でね。もう、ご飯たって、麦を食べられれば最高で、サツマイモの粉だとかサツマイモのつるだとか自分達でとってきて。お芋のいいのは農家の人達ですから。あと葉っぱだとかね、川へ行ってセリをとってきて、アミノ酸の、お醤油だけのお吸い物だとか、そんなでしたね。
子供心に先生がうらやましくてね。100人くらいが本堂に集まって朝食をとる時なんか先生にだけ朝、卵がつくんですよ。あの生卵ってのは、どんな味がするのかと思ってね。それをまた、先生がね、ポォーンと上から割るんですよ。
参加者:笑い
住友
先生は、男の先生でしたか?
宮原
えぇ、男の先生でしたね。大人になってから聞くと、寮母さんが、必ず一緒に行ってたそうです。それで、お風呂は一週間に一回です。農家に借りに行くんです。何時から何時までは何班って、1班、2班に分かれて行くんです。10人くらいずつ。
体操の時間でもね、先生が「みんな、動くんじゃない」って言うんです。
「動くと腹が減るから」って(笑)。そうすると体操の時間は、みんなで本堂の廊下へ出てね、シャツのシラミとりです。ざーっといっせいに。
すごかったですよ。そんな想いをしましたね。

◆Vol.2◆

住友
だいたい学校から行くのは100人くらい?
宮原
そうです、あの縁故疎開もありますんでね。それこそ田舎の学校行くと、地元の子供は白いおにぎりでね、あれがどんな味がするのかなぁ・・とかね、疎開した子供達はもう全然・・。やっぱり、みじめでしたね。
ほんとにいい思い出ってのは、ないですね・・。
住友
夜は焼夷弾の光で見える?
宮原
えぇ、キラキラキラキラ・・きれいなんですよ。
ほんとに花火が散っておりてくるみたいな。
参加者
戦争で、生活が変わり始めたと感じられたのは昭和18年頃ですか?
宮原
そうですね。それまではね、爆撃の時でもB29がいきなり編隊では来ないんですよ。必ず、最初に偵察機が来るんですよ。1機か2機。
相当な高度の所へB29がですね。
で、その時なんかは怖くないんで、みんな表へ出て見てるんですよ。
そのうち、空襲になるんです。そうすると編隊で、だーっと来るんです。えぇ。これ、きれいでしてね、夜。水色に光ってね。そんなことありましたよ。
住友
空襲は夜ですか?
宮原
はい?偵察は昼間来ます。えぇ、だから今日は偵察が来たから、ちょっと今晩あたり危ないぞ・・と言うと夜、はい。すごかったですねぇ。
住友
防空壕って言うのは、あったんですか?
宮原
防空壕は、ありました。私の家には、おやじが作った防空壕がありました。
住友
戦争が終わった時に、同時に疎開も解除になるっていうか?
宮原
そうです、そうです。だから8月15日の終戦記念日ですけど、その時の放送ってのは、あんまりよく把握してなかったですけど、もう負けたってのはわかりましたから。それは、家で聞きました。ラジオで。えぇ。なんかおやじさん連中が、ずーいぶん悔しがってんなぁーとは思ってたんですけど。あの、負けた感覚ってのは、陛下のお言葉が難しいですから、えぇ、あんまりよくわかんなかったですね。
それと、今、思い出しましたが、疎開先で、偵察機が来ると、子供達が「わぁ~!」なんて言って、しょっちゅう外に出てるもんですから、私らのお寺が丸焼けなんですよ。それで、倉田町の実家が残ってるんですよ。
そう言う、皮肉なことがありました。
あれは珍しいですよね、ちょうど昭和20年の5月です。
もうね、LinkIcon苗代からこのくらいの稲を田んぼに移した時なんですよ。
そこをずぶずぶずぶずぶ逃げてね。こんな小さいの(1メートルくらいの高さを指して)ばっかりで。先生に手をひかれて、逃げるんですよ。えぇ。
がっちりしたのもいましてね、自分の布団だけ取りに行くのもいましたし。
みんな結構、すごいバイタリティありましたよ。
それでも、一人も事故なかったです。全員無事でした。
品川区の疎開先でお寺が焼けたのは、おそらく私達だけだったと思います。
参加者
それは、爆撃ですか? そのお寺に。
宮原
そうです、爆撃です。えぇ。焼夷弾や偵察機が来た時に、子供達がしょっちゅう出てたのが、わかってたんでしょうかねぇ・・。えぇ・・。疎開先が焼けて、実家が残ったなんてねぇ、でも、それが何で助かったか、と言うと最後まで手押し井戸が活躍したんですよ。うちの母なんかに言わせますと一晩中、井戸をこぎっぱなしだった言ってましたけどね。
参加者
水をかけてたということですか?
宮原
そうです、そうです。バケツで。燃え移ってくるといけないって言うんで。
住友
その頃、どこのお宅にも井戸がありましたか?
宮原
だいたい、ありました。井戸、ずいぶん多いですよ。
先日のタモリさんの番組(ぶらタモリ)でも品川の旧国道にだいぶ井戸が残ってるって言ってましたね。
それから、今日(2009.12.19)のニュースだったんですけどね、来年の1月早々、テレビ朝日のちい散歩で、立会川が放送されるようです。知り合いから、撮影が終わったという話を聞きました。はい。
(※2010.01.04に放送されました)
立会川のね、天祖神社のお神輿やなんかを撮影してったそうです。
住友
戦争が終わって、こちらに戻られて山中小学校が焼けているので、原小学校へ?
宮原
そうです、仮授業をどこでやるか?と言った時に原小学校に。
住友
よくニュースなんかで、戦前使ってた教科書が黒く塗りつぶされたとか聞きますが、そう言ったことはありましたか?
宮原
それは、なかったですね・・。それは、なかったですよ。
住友
先生も変わらずに?
宮原
先生も変わらずに。はい。ただ、山中小学校から来た生徒が、教室を3教室くらい借りてたんですが、子供が多いもんですから一日、2部授業なんです。
だから、朝組とお昼組があるんです。学校が11時からとかね。
だから、学校来てすぐに給食とかね(笑)
参加者
終戦の頃、小学校の3、4年生ですよね。どういう風に受け止められましたか?
宮原
やっぱり、負けた、ってのは後からわかりましたけどね。
あのー、青年の方達のように敗北感っていうんですか、そういう悔しさっていうのは、あんまり無かったですねぇ。
参加者
食べ物は、あったんでしょうか?
宮原
食べ物、無いです。まったく、無いです。
だから食べ物で一番印象に残っているのは、あの昭和23年ですかオドールっていう野球の監督がいてねサンフランシスコシリーズってのが初めて日本に来たんです。その時に、僕ら浜川中学で野球部におりまして、それに連れて行ってくれたんです。その時に、アメリカの兵隊達がコカコーラってのを飲んでたんですよ。「あれ、なんだろうなぁ~?」と思ってね(笑)
あれが、何しろ飲みたくてね。
それと、兵隊達は必ずトラックできて、当時まだ、銃を持ってるんですよ。そこを追っかけてって、チョコレートをもらうんです。
参加者と同時に「Give me chocolate!」(笑)そうです、そうです。
住友
戦後、アメリカ兵は大井町近辺にいたんでしょうか?
宮原
結構、来ましたよ。
大井地区じゃないんですけど、今の平和島の近辺に昔の悟空林とか小町園とか料亭がありましたでしょ? カニ料理の、なんとかから第一ホテルになった第一京浜国道の角の所に。
要するに、芸者町っていうか産業地でしたから。
そこが、進駐軍の慰安所みたいになってたんですね。

昭和2、30年代の第一京浜国道は、大料亭が並んでいて見事な景観でした。悟空林、小町園、やなぎがありました。なかでも悟空林は、※大廈高楼の屋根にネオンサインを輝かせ一際目立っていました。悟空林の名物は、カニ料理でしたが、江戸前のワタリガニでした。戦前は東京のカニ料理屋でが東京湾のワタリガニを使うことが多かったようです。

※大廈高楼とは、大きく高い建物のことです。それらが立ち並んでいる様子のこと。高層ビル群。また、豪壮な建物のことです。大廈高楼の「廈」は屋根をふいた家、「楼」は二階建て、または、それ以上の建築物のことです。「高楼大廈こうろうたいか」ともいいます。

参加者
大井第一小学校で、ダンスパーティーがあったとか聞いたことがあるんですけど・・・。
やはり、そういう関係で外人の方が多かったからでしょうか?
宮原
そうかも知れませんね・・・。
第一小学校と言えば、有名な方が卒業してますもんね。
LinkIconディック・ミネさんもそうじゃないですか。
あと、昔の時代劇の役者さんのLinkIcon月形龍之介さんとかね。
住友
それでは、戦後、生活自体は急激に変わるということは無かったんでしょうか?
宮原
そうですね、何となく徐々に落ち着いてきたみたいですね。えぇ。
ただ物が無いんで、母親とですね、私は小学校にしては大きかったもんですから、よく田舎へ行って、サツマイモを買出しに行ったりしてました。
行く度に、母親の着物が無くなってたり、姉達が飾ってたお雛様が無くなったりね。
それを物々交換ですね。そして、見つかると全部、没収です。
いかに隠しながら持ってくるかがね。だから派手には持ってこられないですね。無理して半分置いてきたり。
亡くなったおやじがヘビースモーカーでね、戦争中やめないんですよ。それで買出しに行くでしょ、そうするとトウモロコシの毛をキセルに詰めてね。それをはっきり憶えてますよ。
なんで、そこまでして吸うのかなぁ~と思ってね。(笑)
全員
大笑い

◆Vol.3◆

参加者
大井町に闇市はありましたか?
宮原
闇市は大井町、すごかったです。今のイトーヨーカドーさんのあたりが、ずーっと闇市でした。細い路地で60軒くらいありました。
参加者
東急大井町線は当時もう、あったんですか?
宮原
ありました。二葉町の方からバスが、ずーっと来ましてね。大井町線の駅の中へバスが入っていくと鉄板があって、上に乗ると、鉄板がグルーっとまわってバスは、又、来た方向へ帰っていくと言うね。
ちょうど今の突き当たりの駅舎の中です。一方通行でずーっと来て、方向転換できませんから。その鉄板を回すおじさんがいて、ボタンを押すと回るんです。自分達も回したいもんですから、パッとボタンを押して、よく叱られたもんです(笑)
そんなことやってましたね。
住友
大井町の駅前って、しばらく空き地でしたよね?
宮原
そうです、そうです。一番最初が、空き地だったですよ。
参加者
大井町って、工場が多かったんでしょうか?
宮原
工場は多かったです。浜川方面に多かったですね。えぇ。
鮫洲、立会川、あの辺が多いですね。
住友
大井町の工場で、大きいものは三菱重工と日本光学(ニコン)ですが、東海道線の海側の方に中小のいろんな工場がありましたね。私が記憶しているのは、新幹線の座席を作ってる製作所があって、その学生時代に山口県のヒタチ車両って言う所まで車で運んで行くアルバイトをしてました。
住友
よく我々が朝鮮戦争が始まって、景気が回復したって聞くんですけど、
その辺を肌で感じることはありましたか?
宮原
実際に自分が肌で感じることはありませんでしたが、いろんな高額のアルバイトがあったような話は聞いています。
住友
闇市が消えていく・・と言うのは何年頃でしょう?
宮原
あれは、何年頃だったでしょう・・・。ポツポツ建物が出来始めて、私達が中学生くらいだったでしょうか・・。
中学時代と言えば、浜川中学校で授業をやってた時代に一番近かったのがオートレース場だったですよ。授業中に配当金のアナウンスまで聞こえてくるんですよ(笑)オートバイの爆音も聞こえてくるんです。えぇ。
窓閉めてもだめでしたね。今は、無くなりましたが、競馬場の隣にあって、今、フリーマーケットをやってる場所がそうです。
住友
疎開先では野球はやられてましたか?
宮原
全然。「なるべく動くな」って言われてたくらいですから・・。
参加者
勉強はされてたんですか?
宮原
勉強はあるんです。一応、教科書がありますから。
参加者
軍事訓練とかは?
宮原
僕らの時は、無かったですね。私らよりも3つくらい上の人達は、ゲートル巻いたりしてそういうのが、ありましたね。
あと5、6年早く生まれていたら、予科練に行ってたかもしれませんね。
参加者
軍需工場へ手伝いに行ったりしましたか?
宮原
それも、無かったです。行っていたのは、やはり3、4つ上の人達ですね。
三菱重工とか日本光学へ。
帰ってきても、何を作ってるか絶対に秘密でした。えぇ。
参加者
その日本光学とか三菱重工は、焼けなかったんですか?
宮原
焼けたと思います。日本光学も建て直したものですから。
それから大井町の駅前にあった、阪急デパートの前身、カネボウ化粧品が焼けた時は、すごかったです。
住友
カネボウが工場を閉鎖したのはいつ頃だったでしょう?
宮原
昭和24、5年頃?そんなもんでしょうか・・。
そう言えば、今、マクドナルドがあって、大きな丸い柱みたいなのが残ってるのご存じないですか?
あれが、カネボウ化粧品の煙突だったんです。煙突の残りです。
今、半分だけあります。ホテル側のところに。煙突を切ったものなんです。
あの下は、ずーっと立会川ですからね。
あそこの焼け跡でよく野球をやったもんです。
住友
カネボウの社宅が阪急の裏側のところにあって・・。
宮原
そうです、そうです。
住友
大井第一小学校では、サラリーマンの子弟と言うと、カネボウ、富士製鉄、三菱重工に親が勤めているというのが結構、いましたね。当時、親がサラリーマンなのが、比較的少なかった。乾物屋だとか電気屋だとか商売のおうちが多かった。それが今と大きく違うところかなぁ・・と言う気がします。
住友
それから、イトーヨーカドーのあたりは、しばらく空き地でしたが・・。
宮原
そうです、そうです。一軒ずつあやしげな店を整理しようとしたんですよ。
でも、片一方も商売やってますから・・。
おばちゃんが一人でやってて、カウンターに酔っ払ってる人がいて、それがだんなさんなんですよね。お客さんのおとりになるわけですよね。えぇ。
そういう店が多かったです、闇市の中は。
住友
でも、その辺に映画館だとかキャバレーとか杯一(パイイチ)だとか、
ありましたね?
宮原
あ、そうです。キャバレーが大井町に4軒あったですね。
一番高級な所が、バロンという所でね。今の城南信用さんの隣の今は、トヨタレンタカーのあるあたりです。一番安かったのが、杯一さんでした。
ちょうど今、大阪屋さんって言う質屋さんのすぐ前のところにありました。
住友
バロンとか杯一とか、僕らが20歳くらいの時には、まだあったんですよ。
時代と共に、だんだんキャバレーが無くなって、映画館も無くなりましたね・・。
宮原
無くなりましたねぇ・・。
住友
映画館は大井町に何軒くらいありましたか?
宮原
大井町、多かったですよ。三つ又の本通りにツタヤさんていう酒屋さんがあるんですが、あのすぐ隣に大井セントラル。それから、もっとずっーと、三つ又の方へ来てシブヤ楽器さんのすぐ横あたりに松月堂さんってあって、あそこらへんに大井日活。ここは、LinkIcon上原謙さんが経営してました。
参加者
えぇ~、そうなんですか!
宮原
あとは三菱鉛筆の坂を上がったところに昭栄館と大井映画座ってのが、隣同士で。松竹の封切館と洋画があって。
それから、あのヤワタヤさんの間を入ったところにすずらん座ってのがあったんです。そこから、あの通りはすずらん通りと言うようになったんです。
参加者
あぁ、それで、すずらん通りなんですね〜。あと、武蔵野館ってありましたよね。
宮原
大井武蔵野館ってありましたよ。大映の封切館で。
今、どんたくの盆踊りをする広い通りの所にありました。
今の住友ビルのまん前にありました。
住友
その当時は、映画が一番の娯楽だったでしょうか?
宮原
まぁ、そうでしたね。3本立てで50円とか。えぇ。
参加者
テレビは本放送が昭和29年に始まって、その当時は、昼ちょこっと放送したら、あとは夕方まで放送が無いとか・・。
宮原
あぁー、そうでしたね~。
そうそう、(テレビ放送に)休み時間がありましたよね。
参加者
街頭テレビは、ありましたか?
宮原
ありました、ありました。
参加者
小さい頃の大井町の印象は、歓楽街もあって賑やかなところっていう印象が強いんですが・・・。
宮原
そうですね。闇市のあたりのごちゃごちゃとした感じがねぇ。
その名残が東口のあづま小路にちょっと残ってますね。
あそこにはいまだに小さいお店がずらーっとありますね。
住友
あそこは昔からですか?
宮原
むかーしから。古いですよ。あそこは、長いですよ。
住友
戦争中の鉄道の状況は、どうなってたんでしょうか?
宮原
あのー、通常通り走ってました。はい。
住友
じゃ、戦争中でも影響なく動いていた?
宮原
えぇ、大井町線は、動いてましたね。今みたいに電車はそう長くなかったですから。だから今は、ドアの開かない駅がありますよね。急行まで、出来ちゃいましたしね。
住友
大井町線の下の商店は、昔からあるんでしょうか?
宮原
大井デパートですね。あそこは、大家さんが東急不動産なんです。東急電鉄が大家さんなんです。
住友
では、大井町線が出来た時から、大井デパートがあったわけですね。
宮原
ありました、ありました。えぇ。キャバレーみたいなのもありましたし。
ロンドンなんて・・。
参加者
私達が子供の頃の遊び・・チャンバラごっこみたいなものはありましたか?
宮原
チャンバラごっこだとか鬼ごっこだとかかくれんぼだとか、そういうのはあんまり無いですね。小学校時代は、疎開でなるべく動くな・・ってことでしたから・・。
それで終戦になって中学へ行ってからは、すぐに野球部へ入りましたから。はい。
暇さえあれば、野球をやってましたから。えぇ。
住友
日本のプロ野球もその頃には、復活してたんでしょうか?
宮原
あの頃は、僕らパ・リーグってのを知らなかったですよね。えぇ。
サラリーマンになってからですよ。当時の東映フライヤーズですよね。
駒沢球場がフランチャイズで。山本八郎だとかね、土橋だとか。
いろいろいました。あと、張本もそうです。えぇ。
住友
確か昭和25年くらいですよね。セントラルリーグとパシフィックリーグに分かれたの。
宮原
あぁ、そうですかぁ・・・。
昭和28年の時に浜川中学で私は、同じ野球部でしたが、友人が一人、明治高校へ行きましてね。東京都代表でもって甲子園行ったのがいました。まだ、元気でいますけれど。ベスト4まで行きました。ベスト4で松山商業に敗れました。だから、その時の放送です。町で見たのは。力道山のちょっと前ですね。街頭テレビで、初めてそれが放送になったんです。
参加者
あぁ、そうなんですか。初めてのテレビ放送なんですね。
宮原
そうです。今で言うと三つ又商店街の※マルエーさんてね、あそこの文房具屋さんの外に。街頭テレビがありました。はい。
そこへ、見に行きましたよ。友達が出てる・・なんて。はい。
参加者
あの、村松友視さん原作のLinkIcon『時代屋の女房』って言う映画がありましたが・・。
宮原
はい。三つ又のお地蔵さんのところで。あそこでロケやったですよね。
そうです、そうです。※時代屋(古道具屋)さんで撮影してましたね。
歩道橋で傘差して、ロケしてましたね。えぇ。
参加者
あの、村松友視さん原作のLinkIcon『時代屋の女房』って言う映画がありましたが・・。
宮原
はい。三つ又のお地蔵さんのところで。あそこでロケやったですよね。
そうです、そうです。※時代屋(古道具屋)さんで撮影してましたね。
歩道橋で傘差して、ロケしてましたね。えぇ。
住友
昔、大井町に近江俊郎さんもいらっしゃいましたね?
宮原
いらっしゃいました。はい、倉田町にいらっしゃいました。
参加者
品川区って言うのは、昔からこの品川区のままなんですか?
宮原
そうです、そうです。品川区は昔からです。
その前、荏原郡とか大井村の頃は、わかりませんけど。
参加者
今、きゅうりあんの所に、昔、小学校があったと聞いたことがあるんですが?
宮原
立会小学校ですね。グラウンドが、大井町の駅のホームからまん前に見えて。今のヤマダ電機の下あたりが小学校でした。焼けちゃいましてね、校舎が。それで子供達がグラウンドに椅子で、青空教室をしてました。あのあたり一帯が立会なんです。立会川とは、違うんです。あの、大井立会町って言ってました。
参加者
大井の駅前の所を通って、立会道路って荏原町の方へ向かっている通りがあるんですが、あれが川だったんですよね?
宮原
そうです。
参加者
今の立会川と違うんですか?
宮原
いいえ、あれがそうです。第二国道からずーっと行って荏原営業所のバスの操車場の所まで行ってる、あれが立会川です。
参加者
コンクリートで舗装されてるけど、下は、川が流れてるんですか?
宮原
そうです、流れてます。

宮原さんのお話は、ここでおしまいです。
記録や数字でしかわからなかった昭和の戦中と戦後の大井町の歴史が、活きたお話で印象深く心に残りました。機会があれば、ぜひまた、お話しいただければと思っています。
ありがとうございました。





***** 豆知識 *****


▼ニコン(日本工学)

株式会社LinkIconニコン(Nikon Corporation)は、日本の光学機器メーカーである。
『一番美しく』という映画では、当時の様子が詳細に記録されています。 (1944年公開の黒澤明監督)当時の日本光学工業(横浜市栄区)が舞台)

▼上原謙(うえはら けん)

往年の二枚目スター。
加山雄三さんのお父さん。
LinkIcon詳しくは、こちらへ。

▼マルエー文房具店

三つ又通りの中程にある文房具店。2009年12月末頃に店舗部分を閉店。
現在は、事務所のみ営業中。

時代屋(大井町三ツ又)

時代屋.jpg時代屋
時代屋説明板.jpg 時代屋の説明板
時代屋正面.jpg時代屋正面

▼時代屋

※大井町の店を閉店。
現在は、広尾で営業中。
LinkIcon渋谷区広尾の時代屋


▼時代屋の女房{村松友視著}

 国電大井町駅を降り、阪急百貨店を右に見て歩いてゆくと、道幅が急に広くなり風がかわる。その広い道は坂になっていて大きく右へまがっているが、のぼりきったところが大井三つ叉と呼ばれる三叉路、信号の標示には大井四丁目と記されている。ここを左へゆけば大森から池上本門寺へとつづく地上通り、右へゆけば京浜第二国道へぬける商店街だ。
 三つ叉に架かった長い歩道橋の一方の階段が螺旋状になっていて、降りきったところに不思議な店がある。猫の額ほどの土地に作った小さな建物は、「時代屋」という看板がなければ物置小屋といった趣きだ。
<「時代屋の女房」より>

※マツダのランプ

「マツダランプ」 は1910から1962年頃まで使われた株式会社東芝の電球の呼称です。現在は「東芝ランプ」で東芝ライテック株式会社に引継がれています。
丸の中に「マツダ」のマークは、その後は傘マークのToshibaをへてTOSHIBAになっています。例外として光を計測する元になる東芝標準電球には「マツダ」のマークを引続き使用しています。
このような事からMAZDAは、Edison MAZDA Lampなど欧米の電球にも使用されていた時期があります。

●大井町東口あづま小路
koji1.JPG