第19回 品川たんけん隊の集い
日時:平成25年11月9日(土)
午後2時00分〜4時00分
場所:大井第2地域センター 2階 講習室
今回のゲストは、松林二郎さんです。
本日は、大井町にある作守稲荷と松林さんのお宅にある同名の作守稲荷について二つのお稲荷さんを中心にお話をうかがいました。
松林:松林です。品川たんけん隊さんから依頼をいただいてから本日まで、時間がございましたので、あちこち見て歩くことができました。
昔、東芝病院の裏手、立会川の暗渠(あんきょ)の脇、現在の関ヶ原公園のあたりに薩摩藩のお抱え屋敷があったんですね。
そこの中に作守稲荷神社というのがあって、慶応年間の最後の方に島津斉興(しまづなりおき)が、この屋敷に移住しました。そして、江戸時代の末期にお稲荷さんも一緒にこの辺りの土地を大井村の平林久兵衛(ひらばやしくへい)さんに与えたんですね。一体を譲り受けた久兵衛が一帯を開墾して耕地。あわせて屋敷内の稲荷神社を守り続けました。それが大井の作守稲荷神社です。
また、すぐ左隣が、私の家の作守稲荷神社です。戦前、私が子供の頃に父が作ったんですが、普通の民家でお稲荷さんをまつっているのは、そう多くはないんです。
鳥居にもいろいろな種類がありますが、薩摩藩の作守稲荷神社の鳥居は、八幡鳥居で真ん中の額束に額縁があって作守稲荷の社名が書かれております。 鳥居について
我が家の稲荷にも鳥居がございまして、シンプルな神明鳥居です。
珍しいところでは、大阪の四天王寺の鳥居。神仏習合の時代の名残とも言われております。
作守稲荷の名前は、「作」は農作業をあらわし、「守」は守る、という意味で、五穀(米・麦・あわ・ひえ・豆)豊穣を祈願し作られたものだと思います。
祭事としては二月の初午があります。
年一回、初午の日にお供えなどをして鹿島神社から宮司さんにおいでいただいて商売繁盛、身体健全、家内安全を祈願してもらいます。初午の日は宮司さんも多忙ですので、我が家では父の代から二の午に祭礼をしております。宮司さんにきていただいてお祀りをすると気持ちがさわやかになります。また、1日と15日には清掃をして社(やしろ)をきれいにしてお榊を新しくして、お酒、お米、お塩をお供えしお祈りをしております。
品川区にはお寺が80ほどあります。何気なく歩いていると、お寺の中にもお稲荷さんを見つけることがあります。稲荷神社は、摂社や末社としてあるものもあり70〜80はあるものと見られます。
区内のめぼしい稲荷神社として六行会と品川図書館の裏にあるのが稼穡(かしょく)稲荷神社です。薩摩藩の抱え屋敷にありました。かしょくとは穀物、農作業のことで、古いお稲荷さんです。
次に梶原景時にゆかりの梶原稲荷神社があります。梶原氏一門の古墳の上にあります。お稲荷さんや大きな神社の下には古墳が多く、古墳の上に神社を建てていることが多いようです。西大井にある金子山稲荷神社も明治30年に平林久兵衛さんが、作守稲荷のあたりとあわせて開墾して、祀ったところですが、ここも古墳の上にあります。
続いて、目黒駅のこちら側に重箱稲荷神社があります。品川区のこのあたりは将軍のお狩り場でした。三代将軍家光がお鷹狩りの際に、獲物をめがけて鷹を放ちましたが、いくら待っても鷹が戻ってこない。それで近くの稲荷神社に重箱を供え祈ったところ戻ってきたという話です。
以前は上大崎二丁目の場所にありましたが、明治42年に現在の誕生八幡神社へ移されました。誕生八幡神社は、太田道灌が懐妊された奥様のために安産を祈願して作られました。
近いところでは、滝王子稲荷神社があります。滝一族が持っておられたのを近くの王子稲荷に勧請して滝王子稲荷神社となったようです。
そして品川区の中でも有名なのが富士見台中学の横の英倫寺の境内にある厨子入稲荷明神です。
お稲荷さんには普通の神社の系統の伏見系とお寺さんの系統の豊川系があります。こちらのお稲荷さんは豊川系になります、右肩に稲束を負い左手に宝珠をとる「厨子入稲荷明神騎狐像」が安置されています。
稲荷神社や稲荷を祀る寺院によって「当社は日本三大稲荷の一つ」と聞かれますが、総本宮の伏見稲荷大社では、「三大稲荷は地域により異なる」として、三大稲荷の三社を限定することはしていないそうです。
伏見稲荷大社・祐徳稲荷神社・豊川稲荷妙厳寺を日本三大稲荷とする事があるようです。
東京でお稲荷さんの多いところは、中央区銀座周辺です。やはり飲食業、お店、建築業などご商売をされている方が多いからでしょうね。
で、関八州の総元締が王子稲荷神社、落語の「王子の狐」で有名ですが、その下にいくつかの摂社がありまして、12月31日にそれぞれのグループの狐たちが大きな榎のもとに集まって、そこで装束を整えて大きなほこらに集まって総大将の狐がのたまうのを聞く訳ですね。「今年はどうだったか?」とか「今後どうするか?」など説教があって、一杯のんでおしまいにするというお話がありました。その模様を描いたのが、右の浮世絵です。作者は、歌川広重で江戸時代のものです。
20年前にあのあたりの商店街の方や講中の人たちが、このお話を再現されまして、今年で20回目の「王子の狐行列」があるそうです。時間がございましたら、初詣をかねて行って一度、ご覧になるとよいと思います。
大きな榎は今はもう無いんですが、そのあたりで参加者は装束を整えるんですが、そこに装束稲荷というのを作ったんですね。駅を降りたらすぐの所にありますから、そちらもあわせてご覧になるとよろしいと思います。
あと、面白いのは、新宿百人町にある皆中稲荷神社ですね。
昔、百人の鉄砲隊が戦に行く時にお参りをしたら、鉄砲がよくあたって大変成果をあげたそうです。
それ以来、皆(みな)中(あたる)というわけで宝くじを買った人が、この神社によくお参りをしてお願いするようです。宝くじの頃には、是非、行ってみてください。(笑)
明治の中頃には20万くらいお稲荷さんが、あったそうです。現在は、11〜12万くらいで半分になっています。
講中が守っていかないとやっていけないのが、現状です。
請の方々の熱の入れようによって、その神社は栄えていくように思います。
このお話をさせていただくにあたり、品川区教育委員会「しながわ史跡めぐり」、マイコミ新書・作家・久能木紀子「ご近所の神様」を参考とさせていただきました。
▼稲荷神と狐
狐は古来より日本人にとって神聖視されてきており、早くも和銅4年(711年)には最初の稲荷神が文献に登場する。宇迦之御魂神の別名に御饌津神(みけつのかみ)があるが、狐の古名は「けつ」で、そこから「みけつのかみ」に「三狐神」と当て字したのが発端と考えられ、やがて狐は稲荷神の使い、あるいは眷属に収まった。時代が下ると、稲荷狐には朝廷に出入りすることができる「命婦」の格が授けられたことから、これが命婦神(みょうぶがみ)と呼ばれて上下社に祀られるようにもなった。
江戸時代に入って稲荷が商売の神と公認され、大衆の人気を集めるようになると、稲荷狐は稲荷神という誤解が一般に広がった。またこの頃から稲荷神社の数が急激に増え、流行神(はやりがみ)と呼ばれる時もあった。また仏教の荼枳尼天は、日本では狐に乗ると考えられ、稲荷神と習合されるようになった。今日稲荷神社に祀られている狐の多くは白狐(びゃっこ)である。
稲荷神社の前には狛犬の代わりに宝玉をくわえた狐の像が置かれることが多い。他の祭神とは違い稲荷神には神酒・赤飯の他に稲荷寿司や稲荷寿司に使用される油揚げが供えられ、ここから油揚げを使った料理を「稲荷」とも呼ぶようになった[。ただし狐は肉食であり、実際には油揚げが好物なわけではない。 wikiより引用
普段、何気なく前を通り過ぎていたお稲荷さんが、身近に感じられるようになりました。
品川区を散歩しながら、お稲荷さんウォッチングするのも楽しいかもしれませんね。
松林さん、本日は楽しいお話をありがとうございました。