第16回 品川たんけん隊の集い
日時:平成25年3月16日(土)
午後2時00分〜4時00分
場所:大井第2地域センター 2階 講習室
今回のゲストは、倉本勇治さんです。
西大井地区を中心にお話をうかがいました。ナビゲーターは、住友さんにお願いしました。
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住友:西大井は昔は、西大井一丁目、森前、原、金子町とかこの辺が一体になっていたんでしょうか?
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倉本:そうですね。原町を中心にいたしますと、森前、出石(いずるいし)、金子町の一部、伊藤町このあたりが平地、原っぱでした。当時の原町には、お百姓さんの住まいぐらいしかなかったそうです。出石、金子町、伊藤町、森前には民家は少なくて、ほとんどが畑で、あとは篠竹(しのだけ)が伊藤町に生えていたと聞いております。
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(以下、敬称は略させていただきます)
住友:子供の頃の写真をお借りしてきたんですが・・・
倉本:これは鹿島神社の境内ですね。現在の鹿島神社の建造が昭和3年頃だとそうですから、大正の末期か昭和の初め頃だと思います。この写真の消防の皆さんは、森前、原町、出石(いずるいし)、金子町在住の方が参加されております。
住友:こちらは、子供時代のお祭りでしょうか?
倉本:昭和4~5年ですね。大太鼓の山車は大正14年の10月にできたものです。その隣は神功皇后(じんぐうこうごう)のお人形さんをのせております。当時は、鹿島神社の祭礼というと宮本、ほかにもいろいろと睦会がありますが、原町には睦会ができてませんで、原若という呼び名でした。その後、十区睦になりまして、原睦になり現在に至っております。
当時は、原の十区睦には御神輿がございませんで、この太鼓とお人形さんの山車を氏子のみなさんで曳いて練り歩いておりました。その時の記念写真です。原町の四つ角のところです。
住友:四つ角とは、現在の文化堂のあたりでしょうか?
倉本:もっと東の今、キリスト教会のあるところですね。
注:文化堂の方から来て、大井警察に向かう道の左側に教会があるところの四つ角になります。
住友:さて次の写真・・・
倉本:これは原小学校の入学式の写真です。ご参考までに申し上げますと、こちらの助教員(女性)さんが写っておりますが、昭和6年に満州事変の為、担任の先生が出征をされましたので、代用教員のこの方に一年間、教えていただきました。
参加者:女生徒はいないんでしょうか?
倉本:当時、男女別でございまして、男子が3組。1クラス50人で150人。女子が3組。合計6クラスございました。昭和11年、私が5年生の時に伊藤小学校ができました。その時に男子1組、女子1組がいとう小学校に移りまして、人員が削減されました。この当時、原小学校には1500名の生徒がおりました。
住友:われわれもベビーブーム世代で、大井第一小も7クラスあって、1クラスが58人くらい。ですから、ほぼ一緒ですよね。
倉本:そうですね。人数が多かったですからね。
住友:ここに、「おばあさんとびんぼうどっくり」という倉本さんのお子さんがおばあさんのお話を聞いて記述されたものがあるんですが・・
この中におばあさんから聞いた明治38年頃の地図と昭和49年頃の地図があります。ご説明をお願いします。
※地図の詳細は、右のびんぼうどっくり(04と05)をご参照ください。
倉本:品鶴線が通っておりまして、これが踏切ですね。そしてまっすぐ行く道が滝王子通りです。そして光学通り。地図の左端のところに三菱重工がありまして、日本光学がありました。そのあたりに大きな病院がありました。賛育会病院。この病院は戦後23年に取り壊されました。全科揃った大きな病院でした。
水車小屋もそのあたりにあったそうです。母の話ですと、この水車小屋は、主に馬込から来た方が野菜を洗ったり、お米をついたりしていたそうです。地元の人は出石の水神様のところで野菜ものを洗ったりしていたそうです。
この川が玉川上水ですね。これが伊藤町の方から流れてきまして、それが原小学校の裏を通って、今の西大井本通りの前から出石に出て庚塚の方へ行く川が流れていました。そしてこちらの滝王子の方から伊藤学園から宇田川さんのところを通って、セブンイレブンの前を右に曲がり、滝王子の消防署の前を行き、鹿島町の交番の前を通って池上通りの貝塚のところで出石からの流れと合流して海に流れて行ったと。そういう時代があったというわけです。
住友:そして、もう一枚・・・
倉本:こちらは小学校4年生の時、金沢八景へ遠足に行った時の記念写真です。昭和10年頃でしょうか。
住友:当時は、父兄付き添いで、和服の方も見受けられますね。
倉本:そうですね、日本髪を結って。和服の方も多かったですね。
- 住友:当時のバスの路線についてお話いただければと思います。
▲旧中延学園(三間道路とバス通り)
- 倉本:旧中延学園ですね、あそこが
城南乗合自動車株式会社の終点なんです。
- 伊藤町の・・昭和6年以前は篠谷(しのや)と谷垂(たにだれ)と踏切の道路を境にして分かれてたわけです。昭和7年に東京府東京市品川区になりました。篠谷と谷垂が分かれまして、伊藤町という一本になっちゃったんです。昭和6年にバス会社ができまして、先ほどの旧中延学園のところが終点で、ずっと滝王子通りを通りまして、倉田町を出て立会川に向かいます。立会川から元芝へ出て月見台へ出まして、大井町の駅の東口から西口に回っていく。一つの路線ができていたわけですね。一方ですね、こちらの原町の四つ角ですね、このところで右へ回りまして大森の山王、大井の出石と馬込と金子町と接点になっているところなんですね。そこまでバスが出ておりまして、ここに映画館がありました。
- この西大井本通りと称しておりますが、このところに水神様があるんです。
- 水の神様で目を洗いますと目の病がなおると・・目が治った方は鯉や金魚を池に放してあげると・・由緒ある水神様があります。で、そこにですね毎月5日と19日に縁日がでるんですね。お祭りなので、バス通りに夜店がでるんですが、狭い道に店が並びましたところをバスがよく通れたなぁ・・と、不思議だったことを思い出します。
住友:品鶴線についてお願いいたします。
倉本:品鶴線がひかれましたのは、昭和6年だそうです。その時に地元の人達と国鉄(現・JR)の方で、駅を作るという話し合いがされたそうですが、満州事変などの影響か駅舎を作るのは、中止になり、結局、貨物列車の線路になってしまいました。
駅舎ができるという前提でしたから地元の人達は商店街を作って待っていましたが、話がつぶれて商店が2、3軒入ったものの成功しなかったそうです。結局、更地になってしまっておりました。現在は、町工場になっております。
昭和12年に日支事変(支那事変、日華事変とも表現)が始まりまして、軍用列車の運行が、さかんになりました。兵隊さん達がどんどん輸送されて、品川駅と大崎駅から戦地に赴かれたということです。
その時に、私は小学校6年生でございました。品鶴線の踏切のおじさんが「これから○時に軍用列車が通るから兵隊さん達を旗持って見送ってやれ」と言うんですね。日の丸の小旗を持って見送るというのが2年間くらい続きました。
その頃、地元の方も結構、戦地へ赴かれました。知り合いの方3名が、当時の赤坂の一連隊へ(現在の自衛隊)入隊されました。加納部隊というのを編成されて軍用列車で戦地へ赴かれました。戦地でその加納部隊、飯塚部隊、布施部隊などは転戦、転戦で知り合いの方2名が戦死なさいました。1名の方は無事お帰りになりました。そういう時代もございました。
住友:今、西大井の駅ができてますけど、当時から駅の建設の話があったわけですね。品鶴線ができたことで町が分断されたんでしょうか?
倉本:そうです、分断されましたね。
住友:先ほどのお話で原小学校と伊藤小学校に分かれたということでしたが、線路の向こう側とこちら側という分け方でしょうか?
倉本:金子町の一部の方が伊藤町に転籍しちゃって伊藤小学校へ通いました。私のいとこは4人兄弟ですが、3人は原小学校、1人は伊藤小学校と離ればなれになっておりました。
住友:さきほど自己紹介の中で引揚船(ひきあげせん)に乗っておられたとおっしゃっていましたが
倉本:引揚船で一番初めに行きましたのは、21年4月です。北ベトナムのハイフォン。福井出身の兵隊さん3000人ばかり乗せまして、浦賀に着きました。途中で黒砂糖をなめた兵隊さんが赤痢になりまして、残念ながら亡くなりまして、沖縄と台湾の間で水葬にいたしました。伝染病だということで浦賀で半月ほど隔離されました。
次がニューギニアのケイ島へ食料を積んでまいりました。赤羽の工兵隊のみなさんを2800人ほど乗せました。その時の部隊長が宮城県の伊達男爵のご子孫だそうで、中佐でした。和歌山県の田辺港に入港いたしました。そこで上陸いたしました。
それからすぐ2日後にはマッカーサー司令部から命令がありまして、シンガポールに行きました。シンガポールまで2週間かかりました。そこでインド兵が食べている野戦食を2000食積みました。そして行った先がビルマのモールメン。本当の行き先はラングーンでしたが、船がいっぱいで入れず手前のモールメンで兵隊さんを乗せて帰りました。兵隊さん達は、内地がどうなっているのか心配なので船員さんに同姓の人はいないか?同郷の人はいないか?と歩きながら尋ねておりました。私の知り合いの方が偶然乗り合わせておりまして「お宅は焼けてないから心配ないよ」と申し上げました。そんなこともございました。
シンガポールに着きましてインド兵の食べておりました食料を全部ほどきまして、米は米、カレー粉はカレー粉、ビスケットはビスケットに分けました。それを兵隊さんに分配して配りました。そして広島県の大竹港に着きました。
次には、博多港へ行けということで、博多へ。博多から満州、北朝鮮へ在留邦人を迎えにですね。南の方はほとんど帰られておりました。満州、北朝鮮からの方達は、みなさん男装しておりました。もんぺ姿に髪を切って。その中にはお子さん連れの方もいました。お気の毒でしたが、5、6才の幼児が栄養失調で亡くなるんです。医務室に行きまして、アルコールで体を拭いてあげて引揚援護局に渡すんですね。そんなことして博多と11時間でいける場所で1週間くらい隔離されました。
それから次が、葫蘆島(ころとう)。中国の大連の南にあるんですが、そこから瀋陽(しんよう)、昔の奉天(ほうてん)ですね、そこから一般邦人の方が乗船されまして。汽車が来るのを待ってるんですが、客車じゃなくて石炭を積むような貨車ですね。それにみなさん乗ってるわけです。船の着くそばまで来まして船に乗りまして、博多へ着きました。
その時に傑作な方がいましてね。日活の女優さんでした。昭和15年にアメリカを経由してヨーロッパに行かれたんですね。ヨーロッパからロシアに渡ってロシアで終戦になって抑留されて、満州に戻ってこられた。「私はね、昭和15年に出発する時には日本郵船の鎌倉丸の豪華船で行ったのよ。まさかこんな船に乗せられるとは思わなかったわ」とおっしゃったので「戦争に負けたので、仕方がないですね」と申し上げたんですが、そんなこともございました。
参加者:その頃の船はLSTですか?
倉本:リバティです。
7000トンの船ですね。次がLSTですね。Q075というのに乗りましてね。マニラへ行きました。11月の沖縄の海には、まだ台風が残ってましてね。結構、しけました。それでバシー海峡が渡れませんで、レイテ湾の方へ南下いたしまして、レイテ湾からずっと一周して北上してマニラへ入りました。
住友:引揚船は、やはりGHQからですか?
倉本:そうです、マッカーサー司令部からです。それで管轄がシンガポールは英軍なんですね。イギリスの管轄でした。リバティ船には短波は積んでなかったんです。マレー半島とシンガポールの間のジョホール水道、あそこに一等巡洋艦の高雄(たかお)が入ってましてそれが中継してくれました。それで連絡をとりました。
でマニラに着きましたら、昭和22年でしたけれども、日本の船が沈められて煙突とマストが見えるんですね。それを見るとほんとうにくやしくて、情けない思いがしました。
それで引揚船の後は、氷川丸ですね。
北海道、横浜、名古屋、大阪、神戸を定期航路をやってお客様を運びました。
そして、船を降りましてから陸事へ勤めました。そして36年にパレスホテルに入りました。パレスホテルのオーナーは皆さんご存知の阪急の小林一三さんの娘婿の吉原政智さんでした。44年に姉妹ホテルのグランドパレスができて、そちらへ移りました。オープンの47年まで3年間、設営に没頭いたしました。
翌年の48年8月8日が金大中事件です。その時、私は接待をしておりまして、昼食を食べて一階のロビーに降りてきましたら、おまわりさんが大勢いて、急遽箝口令がひかれまして、別室に行くと警察の方とかいろんな方がいらっしゃいました。それから1年間くらい警察の方が来て調べていました。
今では考えられない事件でしたが、そんなことがございました。
住友:本日は、貴重なお話をありがとうございました。
倉本さんのお話はここでおしまいです。西大井地区を中心にお話をうかがいました。
土地の構造から名付けられた旧地名からの変遷など興味深いお話を有り難うございました。
今回、初めてゲストのご家族も、ご一緒下さいました。お嬢様から貴重な資料のご提示もあり充実した集いになりました。有り難うございました。
現在の地名 | 昭和7年 | 明治44年 | 現存する地名 | ||
大字 | 字 | ||||
西大井一丁目 | 大井森前町 | 大井 | 森前 | 森前児童遊園 大井森前交差点 |
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西大井二丁目 | 大井原町 | 大井 | 原 | 原小学校 | |
西大井三丁目 | 大井出石町 | 大井 | 出石 | 出石公園 | |
西大井四丁目 | 大井金子町 | 大井 | 金子 | 大井金子町住宅 | |
西大井五丁目 | 大井伊藤町 | 大井 | 篠谷 | 伊藤学園 | |
西大井六丁目 | 大井伊藤町 | 大井 | 谷垂 | 谷垂公園 伊藤児童センター |