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大井町 昭和から今

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2017-01-19

第5回 品川たんけん隊の集い

平成22年7月31日(土)
午後2時00分〜4時00分
場所:大井第2地域センター 2階 第3講習室
勝浦さんをお迎えして、お話していただきました。

勝浦さん.jpg今回のゲストは、勝浦さんです。
大正14年生まれの、お元気な85歳です。話題が豊富な勝浦さん、お話が楽しみです。
ナビゲーターは、平林がつとめました。

勝浦さんのご紹介;大正14年生まれ。昭和20年に19歳で軍隊に繰り上げ入隊し、同年12月にモンゴルより復員。帰国当時は大井の浜川に下宿され、その後昭和27年に大井町に居を構えられたそうです。その当時の地価が坪2500円だったとのことです。
趣味は歴史探索で個人として「裏から覘いた大井の歴史」を著しています。

 当日は、明治・大正・昭和消費者物価や主な出来事の記録を持参いただきました。また、古い鉄道の切符や紙幣もお持ち頂き、特に兌換券(金と引き替えられる)は参加したメンバーの興味を引きました。
勝浦さんは話題が豊富な方で、色々な話がでましたが、戦後の町の状況・空襲の話・地形の変化についてまとめてみました。

<戦後の町の状況>

池上通りは既にありましたが、現在大井三つ又から東海道線を越えていく通りがありますが、当時はありません。そこには大井映画劇場という名の映画館があり、新東宝の映画を上映していました。新東宝は大蔵貢氏が社長でその弟が近江俊郎です。近江俊郎はしばらく大井倉田町に住んでいました。昭和20年代から30年代にかけては日本映画全盛時代でもあり、大井セントラル劇場、大井武蔵野館、ミリオン座など多くの映画館がありました。
また、大井の三つ又通りも狭く、そこにトレーラーバスといった運転席と乗客席が離れている大型のバスが走っており、若い女性が電柱とバスとに挟まれて亡くなったことも記憶されます。
産業は、ニコンや三菱重工、カネボウなど大手以外に電球や真空管、ネオンサインを作る中小企業が多くありました。京浜工業地帯を支える中小企業がいっぱいあったということです。大井町駅は京浜東北線の大井町と東急線の大井町がありますが、かなりの人が大井町で乗り換えていたようです。市電は大井町には通っていませんでしたが、品川から出ていまして7銭で品川から新宿まで乗り継ぎながら行きました。東京オリンピックまでは市電が我々庶民の足で、山手線内を隈無くカバーしていました。

<空襲>

大井町も空襲に逢い、大半が焼かれました。それも昭和20年に入ってからの被害が多かったと思います。ただ、現在の大井競馬場周辺は、戦災を免れました。その理由は、あそこにオーストラリアの捕虜収容所があったからで、屋根に米軍の飛行機にわかるように「PRISON」と書いてあったそうです。
また、戦後、競馬場が何故できたかというと、戦後の復興資金を集めることが目的で、戦災に逢っていないところは、主催権がなく開催できませんでした。
全国至る所で空襲の被害に遭っているといっても過言ではありませんが、日本で最初に空襲を受けたのは大井町です。昭和17年の4月に米空母のホーネットから発艦したドウリットル中佐率いるB25が現在の大井滝王子町を爆撃しましたが、幸いにして不発弾でした。そのため、不発弾を電柱にぶら下げて皆で見学したそうです。

<地形の変化>

一番記憶に残っているのは、立会川が大井町付近で暗渠になったことです。立会川は碑文谷公園が源泉ですが、今や下流の部分以外はすべて地中に潜っています。
また、町の境界が川で区切られていることが多く、川が暗渠になってしまうと明確な境が見えず、とまどうことが多かったのです。飛び地に見える原因もここにあるのかもしれません。戦前の話ですが、関東大震災のあと、大井町の人口が急激に増えたため糞尿処理に困り、ある地区に集中的に捨てたことがありました。その場所の近くは臭いがこもって大変だったようです。その影響だと思いますが、その辺も飛び地になっていました。
大井町駅前のマクドナルドが全国で2番目の店であること、大井阪急百貨店は大阪よりの初店舗となることなど、大井地区の年表などの資料を持参いただきました。

楽しいお話を色々有難う御座いました。記録した以外にも沢山お話を伺いましたが、紙面の都合で割愛させていただきました。
勝浦さんありがとうございました。





***** 豆知識 *****




▼大井武蔵野館について

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▼大井映画劇場のチラシ

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▼大井昭栄館のチラシ

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