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大井町 昭和から今

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2017-01-19

鎌倉古道を探る旅

天祖神社→大森貝塚遺跡庭園→鹿嶋神社→品川歴史館→来迎院→光福寺→西光寺→来福寺→梶原稲荷

『いざ鎌倉』で有名な鎌倉古道。
鎌倉古道の『下の道』の大森〜大井町までを
歩いてみました。

天祖神社天祖神社大森駅前、八景坂は大森八景という景勝地でありそこに天祖神社がある。その名の通り祭神が天照大神。草創の年代は明らかではない。
八幡太郎義家が奥州征伐におもむく途中、この社で戦勝の祈願をしたが、 そのときに境内にあった松の木の枝に鎧を掛けたと言われる”鎧掛の松”の伝説がある。

八景坂の句碑八景坂の句碑鎌倉の よより明るし のちの月 景山 

大森貝塚遺跡庭園大森貝塚遺跡庭園来日して初めて上京した1877年(明治10)6月19日、横浜から東京に向かう汽車の窓から貝塚を発見した。これが大森貝塚。
 現在、大森貝塚に関する石碑は品川区側の遺跡一帯に整備された大森貝塚遺跡庭園内と、大田区側の大森駅近くの2ヵ所にある。前者は「大森貝塚」、後者は「大森貝墟」と書かれており、貝塚碑は1929年、貝墟碑は1930年に相次いで建てられた。
モースが論文に発掘場所の詳細を書かなかったこと、貝塚発見の報告文書に所在地が大森村と記述されたことから、当初の発掘地点について長い間、品川区説と大田区説の2つが存在した。しかし、その後1984年までの複数の調査により、東京府が大井村字鹿島谷(現在の品川区大井6丁目)の土地所有者に調査の補償金を支払った文書が発見されたこと、貝塚碑周辺の再発掘で貝層が確認された一方、貝墟碑周辺では見つからなかったことから、現在ではモースが調査したのは品川区側であったことがわかっている。

大森貝塚公園大森貝塚公園
←貝殻を模した屋根の下に設置されている貝塚の断面模型図                                            大森貝塚公園大森貝塚公園

公園の中央の部分では、時間になると水蒸気が上がります↓

鹿嶋神社鹿嶋神社鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)の分社として創建されたもので、鹿島神宮と同じ武甕槌神を祀る。鹿島神宮の武甕槌神に対する信仰を鹿島信仰(かしましんこう)という。
武甕槌神は、香取神宮の経津主神とともに中臣氏・藤原氏の氏神とされたことから朝廷・中央貴族の信仰を受け、武神であることから武家の崇敬も受けた。

恵澤潤洽の碑恵澤潤洽の碑鹿嶋神社の「恵澤潤洽」の碑は、高さ5メートル以上ある巨大なものだ。この碑は、品川用水が人々に多大な恩恵を与えたことを記念して、後世に伝えるために地元の人が建てたもの。
品川用水は、多摩川用水を水源とし、開墾や稲苗の生育に貢献したことなどが書かれている。
 地元にとって誇れるものなので、是非とも一読願いたい。「恵澤潤洽」という書と印が彫られている。

月間おとなりさん Vol.293より

初めに、正二位勲一等伯爵LinkIcon清浦奎吾閣下篆額とあります。

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品川歴史館品川歴史館品川歴史館は1985年(昭和60年)に開館した品川区立の歴史博物館です。
品川区の貴重な雲霞と歴史にかかわる史料の収集・保存とともに行政資料の保存も行っています。茶室や
書院、庭園を備えており茶道・華道・俳句など伝統的文化活動の場としても利用できます。
歴史館内歴史館内歴史館では、常設展の各展示品(モース展、東海道品川宿宿並模型、品川の四季のスライド)などの説明とそれにまつわる逸話など、とても丁寧な説明を受けて、歴史館をよく知るいい機会になりました。ありがとうございました。

来迎院来迎院天台宗。安和二年(969年)南品川常行三昧寺の尊栄住職が、常陸鹿島神宮から勧請し慈覚大師円仁作の薬師如来像を本地仏として『鹿島示現山常住鶴林寺観音来迎院』という名の寺を大井関ヶ原(東大井6丁目)に建立した事に始まる。
鎌倉時代になって衰え無住になっていたのを貞和三年(1347年)了覚法印が再興し現在地に移し、その時に示現山常林寺観音院と改称した。
江戸時代になって三代将軍家光が天保二年(1645年)境内に大井御殿を新造し、鷹狩りの時の休憩所にしたので、俗に『茶屋御殿』と呼ばれ寺も『お茶屋寺』と呼ばれていたという。
境内は桜が多く植えられていたので桜の名所として賑わい、たびたび将軍の来迎も得て、その尊崇を受けてきたと伝えている。家光は薬師如来を厚く敬い、日光・月光両菩薩像、十二神将像を奉納している。
天保四年(1833年)には上野寛永寺の塔頭涼泉院が兼務することになり、鹿島山来迎院と改称、明治新政府の神仏分離令により無理矢理、鹿嶋神社と来迎院に別れさせられ今日に至っている。
明治8年から4年間『大井第一小学校』が置かれていた。

光福寺光福寺
光福寺の大井の井光福寺の大井の井大井の井・・光福寺本堂裏の墓地の奥の横穴にあり、今でも水が湧きだしている。寺伝によれば、元大の兵乱(1204〜5年)で東国に流された頭中将光福が、子授けを蔵王権現に祈願すると男児が生まれ、この泉が湧きだし大井と命名したと伝えている。
その男児は後の親鸞(1173〜1262年)門下の関東六老僧のひとり『了海上人』でこの井戸で産湯を使ったとされている。*現在ある大井の地名は、この泉に由来する。

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西光寺西光寺弘安九年(1268年)3月栄順律師が開創し、天台宗であったが、後に浄土真宗に改宗しました。改宗した時期はわからない。天明二年(1782)頃、直筆の過去帳によると栄順以来世襲で継承されているので、開創直後に改宗されたことが推察される。
その後、慶長年中(1596〜1615)に至って、栄空が再興したと言われている。栄空は前述の過去帳では15世空善とされ、清原武則の長子で幼名を伯王丸と呼び父は北条氏康の幕下であったと記述されているが『芳賀氏系図』では栄空は芳賀出雲守定仲と呼び孝護朝、天平勝宝五年(753)に下野国司となって芳賀郡に住んだ。芳賀豊澄の子孫だと言われ織田信長の死後、比叡山に隠れて出家し、三年後比叡山を下って当寺の住職になったと言われている。
『過去帳』一冊、『芳賀氏系図』一巻、武田信玄が玄覚に与えた『感状』一通、徳川家康が玄覚に与えた『御教書』一通が現在も残されている。

来福寺来福寺 創建は平安時代の中期の正暦元年(990)で、かつては鎌倉古道の近くにあり、広大な寺領を有していた。昭和20年(1945)の戦災で多くの建物を失ったが、戦後、本堂、客殿が再建された。本尊は大井一丁目の経塚(現庚申堂、大井1-44-5)から、土中の読経を聞いて掘り起されたと伝えられる延命地蔵で、別名きょうよみ経読地蔵とも呼ばれる。
山門を入った左手に、貞年2(1685)年に造立された庚申塔があり、本堂の左右には松と桜が植えられている。松は、この寺が鎌倉時代の武将梶原景季に縁があると伝えられることから「梶原の松」と呼ばれる。また、桜は、江戸時代に桜の名所であったことを偲んで植えられ、本尊にちなんで「延命桜」と名づけられた。

梶原稲荷梶原稲荷 この辺りに鎌倉の武将梶原景時によって建てられた(1190年頃)といわれる万福寺があったが、元応二年(1320年)の火災で寺の本堂が焼け、境内にあった稲荷社だけが残った。後に万福寺は馬込村(現大田区)に再建されたが、稲荷社はそのまま残り来福寺に所属した。現在は、来福寺との間に民家が建った為、梶原稲荷神社として独立。地元の講中によって祀られている。
社殿の後ろにある小高い場所は、梶原塚と呼ばれ、梶原氏一門の古墳とも伝えられている。
梶原氏は関東平氏の一門で平良茂が初代。源頼朝の挙兵に際し手柄のあった景時の時に、梶原姓を名乗った。
大井・馬込周辺には、梶原景時や景季にまつわる話が多く伝えられているが、一説によると、この梶原氏は景時らの一族とは別で、小田原北条氏の家人でこの地域を支配した梶原氏だとも言われている。