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大井町 昭和から今

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2017-05-10

東海禅寺から碑文谷道をあるく

東海禅寺→清光院→日本ペイント→貴船神社→星薬科大学

国内旅行が自由でなかった江戸時代、寺社参りに多数の町人が出かけた。碑文谷の古刹円融寺や目黒不動も多くの人で賑わった。円融寺参りの道が碑文谷道だった。

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家光と沢庵和尚ゆかりの東海禅寺

臨済宗大徳寺派の東海寺は、萬松山と号し、寛永15年(1638)徳川家光が沢庵宗彭を招聘して開山しました。寺領5,000石、境内地4万7000坪を賜った別格本山格の寺院で、臨済宗大徳寺派の江戸触頭でした。明治維新で廃寺となったものを、かつての塔頭玄性院が旧跡を引き継いで現在に至っています。

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沢庵和尚の墓所

沢庵宗彭(たくあん・そうほう)】1573(天正元.12.)~1645(正保 2.12.11)
 但馬国(たじまのくに)(兵庫県)の人。
京都の大徳寺や堺(さかい)の南宗寺(なんしゅうじ)などいろいろなお寺を変えています。
 1627(寛永 4)の紫衣(しえ)事件では幕府に抗弁書を提出し、1629(寛永 6)出羽国(でわのくに)上山(かみのやま)(山形県上山市)に流され、1632(寛永 9)前の将軍徳川秀忠の死による特赦で京都に帰りました。幕府に屈しない態度は京都などで評価が高まります。
 しかし、第3代将軍徳川家光は武道指南役の柳生但馬守(たじまのかみ)宗矩(むねのり)(1571~1646)の勧めにより、沢庵を江戸に相談役として招喚しました。しばらくして沢庵が大徳寺に帰りたいと家光に願い出たところ、家光は1639(寛永16)品川に東海寺を創建、開山として江戸に留めました。

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清光院入口正面

沢庵和尚で有名な東海寺の塔頭(十七寺)の一寺で、開山からこの地を守る唯一の寺院。
東海寺は芝・増上寺、上野・寛永寺と並んで江戸幕府の保護を受けていた関係から清光院も 幕府、諸大名との関係が深く、今でも豊前中津10万石・奥平家、摂津高槻3万6000石 永井家、両家累代の菩提所として、墓碑が現存している。
尚、これだけの規模の大名墓地は都内でも珍しく、史跡(品川百景)としても指定されている、寺暦350年余りの名刹。

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奥平家墓域
 周囲を瓦積みの土塀で囲み、入口には石門のある約550㎡に及ぶこの地が奥平家歴代の墓である。墓域内には二代藩主奥平家昌以下各代にわたる89基の墓碑が配列されており、とくに家昌夫妻と姉/雲松院の墓三基は3mを超える見事な五輪塔である。この墓域は都内でも数少なくなった大名墓地として、また十万石級譜代大名の墓地様式をよくとどめるものとして貴重である。
 奥平家は徳川家の譜代大名で、初代定昌は美濃において十万石を領した。その後、古河・宇都宮・山形・再度宇都宮に転封され、さらに九州豊前の中津藩主として幕末まで続いた大名である。

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 碑文谷道 (ひもんやみち)を示す道標には、「ひもんや」という地名を刻んだものと、「にをう」とか「仁王尊 (におうそん)」と目的地を刻んだものがあります。碑文谷道の目的地は「法華寺 (ほっけじ)」後の「円融寺 (えんゆうじ)」でした。現在、目黒区碑文谷一丁目の円融寺の地には、今から約1150年前、平安時代前期の仁寿 (にんじゅ)3年(853年)に天台宗の法服寺が建立されたといわれています。その後、弘安6年(1283年)、日源上人によって日蓮宗に改宗され、寺の名称も「法華寺」に改められました。室町時代の最盛期には寺域が3万坪余、坊舎が18、末寺が75ヵ寺に及んだといいます。教義「不受不施 (ふじゅふせ)」のため、江戸幕府から改宗を命じられ、元禄11年(1698年)再び天台宗に戻り、天保5年(1834年)に寺の名称も「円融寺」に改めました。
 この円融寺には、黒塗りの仁王像があり、「碑文谷の黒仁王さん」として、あらゆる願いが成就するといわれ、天明 (てんめい)7、8年(1787、8年)頃から寛政年間(1789年から1800年)にかけて、江戸庶民の信仰をあつめ、お参りする人達で大変賑わいました。この仁王像は永禄2年(1559年)の制作で、東京都有形文化財に指定されています。
 さて、この碑文谷道の道筋ですが、品川宿から円融寺へ行く道筋を道標や江戸時代の絵図などから推定しますと、次のような道筋が考えられます。南品川宿の南馬場から西に向かい、日本ペイント(株)正門脇に、享保21年(1736年)、南品川庚申講中の人びとによって建てられた目黒道と碑文谷道の分かれ道に建てられた道標があります。さらに直進しますと、現在、東海道線の下をくぐるガードがあり、碑文谷架道橋の銘板がついています。さらに西に向かいますとかつては直進する道がありました。(現在はJR東日本車輌センターへの線路や横須賀線で直進できません)そして貴船神社の南を通って平塚橋付近に至り、小山2丁目の朝日地蔵堂付近(地蔵の辻と呼んでいた)ところに着くと「左 仁王尊」「右 不動尊」と刻まれた道標があり、そこから仁王尊道の方へ行くと円融寺に着きます。110115himonya (13).jpg
碑文谷道道標

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東海寺入口の手前のビルのエントランスには、品川ゆかりの浮世絵の展示がありました。

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2011年2月まで工事中の為、入館不可。
日本ペイント歴史館の入口

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星薬科大学建物

町あるき雑感
1月15日午後1時集合。寒い日でしたが、新馬場駅に集合。東海寺から、沢庵和尚の墓所を巡りましたが、その広さに驚かされました。
清光院では歴史のある墓標を巡り、日本ペイントの記念館での見学はできませんでしたが、外壁の黒ずんだレンガに歴史を感じました。
線路のトンネルをくぐり中原街道に出ます。貴船神社の社殿を拝観し星薬科大学に寄りましたが、入場はできませんでした。
底冷えの寒さもあり、戸越銀座にて解散となりました。