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大井町 昭和から今

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2017-01-19

■古東海道に赤穂義士を訪ねる

品川駅→高輪プリンスホテル→東禅寺→二本榎→承教寺→細川下屋敷(切腹の地)→泉岳寺→魚藍寺→幽霊坂→亀塚→済海寺→西郷・勝会見場

徳川幕府が五街道を制定する前の東海道は、三田から八つ山までの高縄道を通って御殿山から北品川に繋がっていた。中原街道は、新高輪プリンスホテル横から島津山を経て五反田へ分かれて、平塚まで東海道の脇街道として現在も残っています。
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新高輪のある敷地は薩摩藩下屋敷のあったところ。坂を上って高輪プリンスHにあるルネッサンス様式の洋館は旧竹田宮邸で戦後に西武鉄道に払い下げられ別館として使用、今日も結婚の記念撮影をしていた。東禅寺.jpg
高輪公園を抜けて最初の英国公使館のあった東禅寺に入る。曇天の紅葉した木立の下、本堂の「海上禅林」の額と三重塔が迎え幽玄の世界に来たようだ。
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写真にカーソルをのせて沢蟹を見よう
洞坂の朝吹常吉(三越・帝国生命社長)邸はスパニッシュミッション様式の洋館で現在東芝山口記念館になっている。ここでは沢蟹がお出迎え。歩きならではの発見で皆さん感銘。

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写真にカーソルをのせて件の写真を見よう
高層マンションを背景にすっかりお役御免になった二本榎消防署の火の見櫓を右折し承教寺へ行く。この道は徳川幕府による五街道制定以前の古東海道で以降は中原街道になり神奈川県平塚市で東海道と合流している。寺に入ると両側に虎のような顔をした狛犬が一対迎えてくれるのは、件(くだん)という妖怪で字の通り半人半牛の姿。境内の画家英一蝶の墓をお参り。

切腹の地.jpg切腹の地.jpg
写真にカーソルをのせて説明詳細を見よう
東海大学前から高輪住宅に入るとここは細川家下屋敷跡で奥に大石内蔵助ら赤穂義士17名が切腹した場所が義士会により残されている。
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▲カーソルをのせて、明治の泉岳寺を見よう
高松宮邸前から四十七士と浅野内匠頭の墓が並ぶ泉岳寺に参拝しよう。

伊皿子坂より.jpg伊皿子坂より芝浦を望む 明治
魚藍塩地蔵.jpg魚藍塩地蔵.jpg
カーソルをのせて、魚藍寺の写真を見よう
伊皿子坂を上り魚藍坂を下る途中に魚藍寺があり境内に塩地蔵が祀られている。薬王寺に加賀千代の朝顔の井戸がある。
三田にかけてのこの辺り一帯は、寺域で江戸市街の拡張に伴い麻布や八丁堀などから諸宗派の寺が移転してきている。高縄道に戻ると三田台公園があり、月の岬と呼ばれた月の名所で眼下の東京湾に映る月を鑑賞したらしい。
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カーソルをのせて、玉鳳寺の写真を見よう
玉鳳寺には化粧延命地蔵が祀られている。こちらは塩地蔵と違い山門脇の屋根のある祠で、パフで叩くと衣魚や黒子を消すというやはり女性向きか明るく綺麗だ。

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写真にカーソルをのせると亀塚公園
更級日記由緒の亀塚公園東側の崖下に三田八幡神社がありこの周辺の郷社で和銅2年の鎮祀
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写真にカーソルをのせて説明板を見よう
隣は最初のフランス公使館のあった済海寺。
モダンな建物と背景に43階建ての三田ツインビルが異空間を作っている。幕末の薩英、幕仏の武器取引と維新に向けた列国の指導権争いの中、この2kmの範囲で数回行われた江戸城無血開城の行方に注目していたのです。

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聖坂を下りて第一京浜国道に出て江戸市街を戦禍から防いだ西郷南州・勝海舟 江戸城無血開城会見の地で締めくくりました。

東禅寺:慶長14年(1609)、伊東祐慶が嶺南崇六を開山に招聘して、現在の東京都港区赤坂に創建した。寛永13年(1636)、現在地に移転。眼前に東京湾が広がることから海上禅林とも呼ばれた。幕末の安政年間(1855年~1860年)以降、当寺は西洋人用の宿舎に割り当てられた。安政6年(1859)には、日本初のイギリス公使館が当寺におかれ、公使ラザフォード・オールコックが駐在した。

三田八幡神社:和銅2年(709)、牟佐志国牧岡(むさしのくにまきおか)という所に、東国鎮護の神様として鎮祀され、延喜式内稗田神社と伝えられた。その後、寛弘8年(1011)武蔵野国御田郷久保三田(みたごうくぼみた)の地に遷座され、嵯峨源氏渡辺一党の氏神として尊崇された。俗に「綱八幡」と称する。江戸開幕のみぎり、僧快尊が元和5年(1619)、現社地を卜(ぼく)して造営を開始し、寛永5年(1628)8月に遷座した。別当は八幡山宝蔵寺と称し天台宗に属する。神仏分離により別当僧復職し神主職に就いた(石田弾正)。明治2年9月稗田神社と称号した。同7年1月に三田八幡神社と改称し、同30年4月三田の冠称を御田の旧名に復し御田八幡神社と称号するに至った。


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町あるき雑感
11月17日(土)14時たんけん隊のほか大井3丁目から掲示板の案内を見て参加した2名の女性の5名で小雨の中、品川駅を出発した。赤坂の虎屋となんら関係のない羊羹の虎屋の隣、大石内蔵助以下17名が切腹した場所が義士会により残されている。15時高松宮邸の前から泉岳寺への坂を下っている時雨脚が速くなり小川の中を歩くような状態で慌てて屋根のある境内の休憩所に飛び込む。しばらく休憩し浅野内匠頭と赤穂浪士の墓をお参りして魚藍寺に行く。高輪道に戻り薬王寺、月の岬と呼ばれた三田台公園の先を左に幽霊坂の辺りは寺域で多数の寺が並んでいます。寺域以外は各地の藩邸が並んでいました。そのため品川遊郭に通う客は「人べんの有ると無し」と揶揄されました。更級日記由緒の亀塚公園東側の崖下に三田八幡神社があってこの周辺の郷社で和銅2年の鎮祀。亀塚公園は晴れていれば普段親子連れの遊び場でにぎわっているのだが今日は我々だけしかいない。赤穂義士と開国攘夷、倒幕と徳川幕府にとって重要な政治判断を迫られた地域の町あるきでした。16時20分田町駅解散。